149「高野山たどり着き隊物語」(6・不思議な赤い灯篇)

09年8月15日(土)

★前回は「村」についての補足がつい長くなり「不可思議なこと」の話に至りませんでした。
さて、今回はその話です。

ある夏、この記録にたびたび登場する学友モリちゃん、そして飲み仲間のR女史の三人で祖父の家を訪れた時のこと・・・

今日中に大阪に帰らねばならないというその日、祖父はあいかわらず囲炉裏を囲んだ私たちに昼間から酒をすすめます。こうして今まで何度帰る日を引き伸ばしてしまったことでしょう。
でも今回は仕事の都合上どうしても帰らねばなりません。
モリちゃんとR女史は祖父の昔話に聞き入りながら次第に酔いはじめました。
闇の山道を知る私は(脳天気な彼らと違い)冷静に「はよ帰らな暗くなるやん・・・」と、時折窓の方を振り返っては陽の高さを確認していました。

しかしいつしか私も酔いはじめ・・・しばらく窓の外を見ていなかったことにふと気づき「陽は?」と見ると、ああ、山の夕暮れはつるべ落としといいますが、もう薄暗いではありませんか。

「おい、モリちゃん!もう夕方や!帰らなあかんで!」
で、祖父名残惜しそうに「トンネル出たとこの家に預けといて」と、懐中電灯を一本貸してくれました。
そうこうするうちに外はもう真っ暗・・・。
でも今夜は三人もいるのだから闇夜の山道も何も怖いものなしです・・・たぶん。

でも皆あと先になるのがイヤで狭い山道を横一列に並んで歩き始めました。
祖父の家の灯りが見えなくなる山道の曲がり角まで、いつものように祖父は石垣の上から提灯を灯して見送ってくれます。
と、村の明かりが見えなくなっての、とある曲がり角に差し掛かったとき、「・・・おい、わしら何してんねん?」

そうなんです。
私たちはその場所でいつ立ち止まったのか、なぜ立ち止まったのか、それも山肌に向って知らぬ間に三人並んで突っ立っていたのです。

そして、気づきました。
目の前の山肌の、手が届くほどの繁みのなかに、まるで宝石のルビーに光を当てたような、親指の爪の大きさほどの真っ赤な光がポツンとひとつ目に入ったのです。

「・・・あ、あれなんやぁ?」「なんやろ?」「ウサギの目か?」「アホか!」
泥酔すると私を羽交い絞めにしたりのワザをかけ、醒めるとその理不尽な暴力行為を完全に忘れてるという悪癖の持ち主かつ拳法取得の屈強なモリちゃんに私は言いました、「おい、おまえ、ちょっと見てこいや」「いやや・・・」

と、次に私たちは驚きました。
「なんや・・・!?」

私たちは知らぬ間にまた横一列で歩き出していたのです。
その赤い灯の前でどのくらい突っ立っていたのか、そしていつそこを離れ歩き出したのか、で、どのくらい歩いたのか・・・その間の記憶が、数秒か数分かの記憶がすっぽり抜け落ちていたのです・・・。

「え、わしら何しとったん?」
普通なら「もう一回見に行こ?」なのに、そんな気もなぜか起こらず、ただそのまま歩き続けてようやく町へ・・・。
今思えば、よくある話の「宇宙人に拉致され人体改造・・・」ではと・・・。

そう、ここで思い出しました。
以前レントゲンを撮った際、初老の医者が「あなたはバテイテツケイジンです。十万人(百万人だったか?)に一人です」といわれ、「そ、それなんです?!」

・・・それは「馬蹄鉄型腎」といい、通常のそら豆形の腎臓ふたつがひとつにつながっており、馬の蹄鉄の形をしているというのです。
先生(うれしそうに写真見ながら)「でも、これは初めて見ました」
私(もうイヤ〜な気分で)「え、まだありますのん・・・」
先生(なおうれしそうに)「トカゲの形してます」

そう、写真をみるとなるほど蹄鉄状のそれから四本の手足のような突起が・・・。
ま、馬蹄鉄型腎のデメリットは結石になりやすいとか。生体移植はもちろん出来ませんわなぁ。一個しかないわけやから。
メリットは・・・ああ、聞いとくんやった(酔っ払ってこの話する時は「精力絶倫に!」と言ってますが)・・・世界でも我輩ひとりかもしれん!ということぐらいでしょうか(それがメリットかぁ?)
以後、我輩愛用のジッポは、あのトカゲかヤモリがデザインマークの「ラーキン」のにしてますねん。

・・・話がそれました。
後日、村を訪れた際、祖父に尋ねました。
「おじいちゃん、あの祠のある手前の曲がり角の繁みで赤い灯みたんやけど、まさかあんなとこ電線通っててショートしとるわけでもないよなぁ?」
と、祖父「マサキ、よ〜聞いてくれた!あれ見たんか?あの曲がり角ではな、昔っから・・・」

さてさて、このつづき知りたい方には当店で私が直接お話しましょう。
そうでないと私が酔ったときの「ネタ」がもうなくなりますゆえ・・・・。
ごめんなさい・・・。

で、この記録の第1話の続きにもどります。
これまで記した話を酔うたびにてら吉クンに喋っていたのでしょう。
彼はそのことを覚えていて「村」に行ってみたいというのです。

私たち四人は雨模様の高野の町を出発しました。
あの山道の運転は久しぶりでしたが今回は小型車の日産キューブ。大丈夫でしょう。
昔、サラリーマン時代に部下のOクン夫婦をグロリアのワゴンに乗せてこの山道を走ったとき、運転好きのOクンでさえ「店長〜、タイヤが半分谷に出てまーす!」ってなこと叫んでましたが・・・。
今回キューブ乗車のてら吉クンたち、「ジェットコースターに乗ってるみたい!」と、わめきながらの我ら「たどり着き隊」
こうして車で村まで行けるようになるまでは、夕方のバスは奥の院入り口までしかなく、土産の日本酒とすき焼き用の肉提げての徒歩行は大変なものでした。特に雪の日など足首まで雪に埋もれながらで死ぬ思いをしたものです。

これまで毎春、母の要望で山菜採りに村に来ていたのですが、この数年は仕事の都合上訪れていませんでした。
祖父が見送ってくれた石垣がみえるはずの山道の曲がり角に差し掛かっても、成長した杉の木立で眺望さえぎられ、村の存在さえ分からなくなっていました。
叔父がこっそり教えてくれたマッタケがとれる秘密の場所や、前回記した「樅の木屋敷」址の石垣があった場所も同様で、山の形が変わってしまいもう分かりません。
村の墓場も、手入れされているのはほんのわずか。奥まった場所の苔むした墓石群は倒れ傾き、土や草木に埋もれています。
祖父の家の目を見張るようだった石垣も(これは車が通れるようになってからですが)半ばまで埋められてしまい、でも車が堂址前まで入れるようになっています。
石垣下の急斜面のかつての畑は高野槙で覆われ、いまや誰も住まぬ祖父宅の池の水は抜かれ、サッシに代わった窓は固く閉じられてはいますが、訪れるたびに家屋全体がゆっくりと朽ち果ててゆく様です。
裏の畑の通り道両側に、祖父がズラリと日本酒の瓶を逆さに植え込み、その内側に様々な植物が繁茂していたのが、「雨風にもあたらんのに・・・」と子供心に珍しく思ったものですが、その畑址も雑草が生い茂り踏み入ることも出来ませんでした。

堂址で発見されたあの小刀は祖父がどこかに売り飛ばし、蔵の取っ手の刀の鍔も祖父亡き後叔父が10万円で古物商に。
たった一人残った跡継ぎのその叔父も若くして亡くなり、叔母は一人高野の町に移り住んでいます。

一昔前までは祖父宅以外の空き家に高野の坊さんや高野山大学の学生さんが住んでいたこともありましたが(そういえば元憲兵の老人の借家などは南洋風に飾り付けられ洒落たものでしたが、今や「ネコ屋敷」と呼ばれるほど異常な数のネコが住み着いた廃屋に)、電気とプロパンガスは利用できるものの日照り続けば飲み水にも難儀する山の湧き水頼りでは人が住まなくなるのも仕方のないことで、十数軒あった家々も今や高野の町から戻ってきた方が住む坂の下の家と、手入れはされていますが人の住まぬ家が一軒。叔父の大工用の材木置場だった空き地に和歌山大学の教授が建てた小さなログハウスが一軒あるのみ。廃屋としてかろうじて残っているものも五〜六軒・・・。
その他の家屋址はやはり杉の木に覆われ跡形もなく、自然の力をまざまざと見せつけられる思い・・・。

皆で山の上の、あの猟銃を撃って私たちに「戻って来い〜」と叫んだ「宮のおじさん」宅の廃屋にも行ってみました。
そこからの眺望は、数年前まで眼下の堂址まで見おろせる絶景でしたが、すでに杉の木立で何も見えぬまるで山の中・・・。

父の転勤の関係で住まいを何度も替わった私にとって、幼少の頃から現存している家屋はこの村のこの祖父の家のみ。
その思い出のよすがとなる家も、そして土地さえも今や失われつつあります・・・。
ああしかし、高校卒業と同時に祖父にならい生やし始めた口ヒゲの私が(当時は「若いのに」とバカにされたものでしたが)、年取ると共に親戚に「おじいちゃんそっくりや!」(「じゃあ小遣いくれ」と返答しますが)といわれるようになったのが、生きている今日の遺産でしょうか・・・。
さらば、高野山!

「高野山、たどり着き隊物語」完。

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