167「浜島サン」

1.21thu/2010

★墨丸組の人々 23号

パソコンのホームページなんてのが普及してなかった頃、年に数回「墨丸亭綺譚」という名の、いわば墨丸の「広報誌」(通称「墨丸新聞」。A3両面印刷1千部)を墨丸会員向け等に発行していた。

その紙面に、会員のプロフィールを紹介する「墨丸組の人々」と、会員さん経営の飲食店紹介「墨丸クラブ 会員広告」というコーナーがあった。
01年秋の掲載が「墨丸組の人々 21人目」「墨丸クラブ 会員広告NO.17」に、会員23号「浜島サン」と、彼が経営する「串勝屋」という店を紹介した。

当時の記事を一部引用しつつ、以下。
『ウ〜ム、閉店後呑めるところがなくなったじゃないか、と思いきや、棄てる神あれば拾う神ありとはこのことで、とある深夜、店の電話のベルが鳴る。「スミちゃん、店やってますよぉ」。墨丸が「師匠」と崇める浜島サンからであった。

墨丸がサラリーマンのころ(注:今から約20年前)、堺の浅香山自宅近所に「ポテトおじさん」という居酒屋がオープン。その時に一度だけ呑みに行ったことがあった。
その後しばらくして我輩脱サラし、飲食業という苦界に身を沈めたころ、仕事を終えての深夜、堺の安酒場「タイガース」のカウンターで、どこかで見かけた一人の男性と隣同士となった。
その人が「ポテトおじさん」の大将だった。

「そうですかァ、うちの店に来てくれはったんですかァ。ありがとねェ、ありがとねェ」と、初めてそのとき言葉を交わした彼が浜島敏郎という名だと知った。
それからどんどん泥酔していった浜島サンをついには二人乗り禁止の原付バイクの後ろに乗せ、自宅マンションまで送り届けたのがつきあいのきっかけである。

以来、「店の看板消えてても入ってきてや」との言葉に甘え、閉店後の「ポテトおじさん」で冷や酒を二人してあおり続けるという日々のなか、墨丸が「師匠」「浜島サン」と呼ぶと、二歳年下の浜島サン「浜島サンなんて呼ぶなぁ、浜チャンでええねん!」「なにいうてるんですか、この世界じゃ先輩やないですか」「なにいうてんねん、スミちゃんは人生の先輩やないかぁ」云々の会話飛び交い、で「これ食べや〜」とマグロの刺身なんぞがサービスで出てくるのであった。
以後、なんやかんやいいつつも浜島サン、酔うと墨丸のことを「弟よ〜」と呼ぶようになったのであるが・・・。

その後残念ながら「ポテトおじさん」は閉店。
遠方の堺東に移転しスナックに業種変更したりで夜毎足を運べなくなったのだが、心機一転、串カツ屋を始めるとの冒頭の電話とあいなった次第。

その浜島サンは、巳年生まれの血液型はA。
十代で鹿児島から堺に出てき、割烹料理店に勤務。以後、飲食業界一筋のいまだ独身。
ダウンタウンの松本似だけれど、彼のようにゲスっぽくもなく物腰穏やか。初対面ではとっつきにくい感もあるけれど、本音でつきあえるいい人と分かるまでそう時間はかからない』(店の紹介文は省略)

★電話

そしての今月17日(日)夜、電話あり。
「長居の墨丸のマスターがそこで店してはりますのん?」(聞き覚えのない男の声)
「はい、そうですよ〜」
「住吉に戻ってきたって聞いて久しぶりに長居に行ったら違う名前になってたもんで」
で、その男性に我孫子店への道順伝え、「じゃ、折を見て伺いますわ」と。

後刻、カウンターが少々込んでいる時に野球帽を深めに被った体格の良い男性が来店。
カウンターの端で携帯いじりながらジントニックを静かに飲む・・・。
「なんや近寄りがたい人やなぁ・・・」と思ってると、「マスター、呑めへんの?」「は、ありがとうございます」と、深々と帽子を被った彼の顔をみると「ああ!」。長居店に来られていたH氏であった。
「なんや〜、ヤーさんかと思ったぁ」などと口には出さなかったけれど、いつもそんな雰囲気の方だった。
「夕方電話くれはったん?ひっさしぶりですなぁ!」
「千代田の店も探したんやけど分からんかったわ。それはそうと知ってはる?浜ちゃん死んだで」

★浜島サンが

・・・浜島サンが死んでいたのだ。
我輩が「ポテトおじさん」で知り合ったそのH氏によると、3年前に肝臓癌で亡くなったというのだ。呑みすぎからの肝硬変から肝臓癌に罹ったというのだ。

千代田店に移転する頃にも堺東天神の串勝屋へ行ったのだがそのときは閉ってい、我孫子に来てから伺うと店の名前が変わっていた。
むかし原付きで送っていったマンションにもいったけれどポストに名なく、電話帳で浜島サンの名を調べても掲載されてもいず、「ああ、不景気で鹿児島に帰ったのか。電話ぐらいくれてもええのに・・・」と思っていた。
が、丁度墨丸が千代田に移転する頃に亡くなっていたのだ・・・。

師匠のアホ、あの世でまた呑も!それまで待っといてや!

「浜島さん」完

<戻る>