449「三ケタ番号の人」

3.13.wed/2019

いままで何人の方々のこのことを記してきただろう。
その人数も名を思い起こすことさえも、もう嫌になってきてしまった・・・。

★3月2日の夜

久しぶりに友人M氏と呑んだ。
その席で彼が言った。
「Tさんからの寒中見舞いのハガキで知ったんやけど、ミヤモトさんのことが書かれててなぁ」
ミヤモトさんとは我らがサラリーマン時代の先輩のこと。が、我輩はM氏ほど懇意ではなかった方だ。
そのミヤモトさんが心筋梗塞で2月に亡くなったとハガキに添え書きされていたことを彼が知ったのは、ほったらかしの郵便受けからそのハガキを取り出した、告別式のまさに当日。あわてて式に出向いたという。

M氏が続けて言った。
「スミちゃん、ホソカワさんに連絡つかへんって言うとったやろ。告別式でチラッと聞いたんやけど、ホソカワさんも亡くなってたわ・・・」

★三十数年前・・・

D社の東京三鷹の営業店舗から大阪本社配属となって帰阪した我輩、事業部が当時入居の貸しビル閉まる午後11時まで、同期のM氏と共に連日の夜食手当もなしのサービス残業。そして残業終了後から呑みに出るという、いま思えば無茶な、でもそうでもしないとストレスに押しつぶされそうな、共に本社では新人スタッフゆえもあってのそれこそ「24時間戦えますか!」の日々。

そのM氏とは今日までの長い付き合いとなるが、入社当時の全国店長会議の席上初めて会ったM氏の印象は、「気に食わんヤツ」タイプ。で、彼も我輩のことを同じように思っていたとか。
そんな彼と共に本部スタッフとなってから同じ堺方面への帰宅組と分かり、帰りに酒を酌み交わしたことがきっかけでの今日まで。

★三ケタ番号の人

そんな残業中のある夜、経理担当で月末には我ら同様サービス残業となる先輩ホソカワさんが、「お前ら、いつもどこ呑みに行ってんねん。たまにはわしも連れてけや」と、独特のだみ声で。

D社の各事業部は部課長制度なく、上司は事業本部長と室長のみ。で、入社順に「働きさん番号」というのが設けられている。その番号で先輩後輩の区別がついたものだ。我輩は2799番。で、ホソカワさんは畏れ多くも三ケタ番号182番の、当時三十代半ばの年長者。さらに社では先輩後輩にかかわらず「さん」づけで呼びあう決まりだったのだが、ホソカワさんはそんなことなどお構いなし。元大阪副知事の小西禎一似のメガネの奥の目ギロリとさせながらニコリともせず、我らを平気で呼び捨てにするという、少々こわもてといった方だった。

そんなこともあって、それまで私的に会話を交わしたこともなかった方だったが、その夜はじめて三人で酒を酌み交わしてみると思いがけなくも同年代的気安さを抱いてしまうほどの、社内イメージとはかけ離れた、少々シャイな面もお持ちの話の分かる方だと判明。いつしか仲間うちでは「ほそやん」とも呼ばれるようになっていた。

それからというもの週末は必ず、平日でも「おい、はよ仕事終われや」と。大先輩ゆえほかの先輩方がサービス残業中でも「はい」と早々に退社できるのがそれはもう嬉しくって嬉しくって。

★四人会

それまでは、入社時の研修先店舗で副店長を務めていた、我輩より若干年下の先輩イダさんが我輩の呑み友だった。
イダさんが他事業部へ転属となってからもしょっちゅう社内電話で「今夜どう?」と誘われていたなかにM氏が加わり、さらにホソカワさんが加わったわけだ。そしてその四人で夜毎の、深夜ながらもバブル絶頂期ゆえ昼間と変わらぬ雑踏のミナミでの、なぜか飲み屋を見分けることにだけは秀でていた我輩開拓のスナック、ラウンジ徘徊する日々に・・・。

そしてこの仲間を我輩「四人会」と名付けた。
「しにんかい」である。四人で死ぬまで呑もうという意味をも込めて。

そんな我らに共通していたことは、社外で仕事の話を一切しなかったことだ。意識してではなく。仕事を終えてまで仕事の話を続ける世のサラリーマンと我らが異なっていたことも四人結束の一つの要因だったのかもしれない。ま、「ほそやん」はホステスさんに我輩の私的な有ること無いこと吹聴しまくって笑いをとるというマイナス要素はあったけれど・・・この時代の馬鹿話はソレこそクサルほど。でもそれは別の機会に。

★当時から金欠だった・・・

当時、イダさんとM氏は一人暮らしの独身貴族。我輩とホソカワさんは既婚者。若輩の我輩など金銭面だけでも夜毎の付き合いなどできるはずもなかった。
そんなとき独身組は「ボーナス返しでええから!」、ホソカワさんは「おまえの分は出したるがな!」と、それぞれの面々または「四人会」での呑み会が繰り返されていた。挙句の果てにはミナミのスナックマスターが会社までホソカワさんのツケ取り立てに来るほどに。そんなときホソカワさん、「近々行くからってうまいこと言うとけ」と矢面に立たされるのが我輩だった。

★最後の日

そのホソカワさんと最後に会ったのは、我輩が2015年夏に墨丸店内で倒れ入院する前だった。
すでにD社を定年退職されていたホソカワさんが墨丸に呑みに来られたその夜も、「おい、はよ店終われや。歌いに行こ」「ダメですよ、生活かかってますもん」「俺が奢るからはよ閉め、はよ閉め」
で、たまたま店に来ていたM氏と常連のT女史も引き連れ近所のスナックに出向いたあと「うちで飲み直そ」と、全員で奈良のご自宅までタクシーで・・・。

そのころ奥さんは亡くなられており、一軒家で一人住まいだったホソカワさんが翌日、近所のバス停まで送ってくれた。バス停に佇んで我らを見送ってくれたその姿が最後のホソカワさんだった・・・。

★その後・・・

我輩退院後、病で墨丸閉店した旨、また呑みましょうの旨伝えるためハガキや電話、メールをしていた。何度も。が、呼び出し音鳴り響き、返信なしの繰り返し。
昨年、D社の上司だったKさんと呑んだ際にもホソカワさんの近況尋ねたけれどご存じなく・・・そしての冒頭M氏の「死去」の言葉だった・・・。

庭の手入れが日課だったホソカワさんの姿が見えないのを不審に思った隣人が室内で倒れているのを発見。東京に住む息子さんに連絡。息子さんが東京の病院に入院させ、そこで亡くなられたという。東京での死去ゆえか、M氏に情報もたらした方も、死因も亡くなられた日もご存じなかったという・・・。
もうこのページでホソカワさんのことを記すこともないのかと思うと・・・話を聞いた3月2日深夜帰宅してからと同様、涙が出てくる。

「四人会」イダさんは、我輩がD社退職後に中途退社。当時交際していた女性の某国に行ったまま音信不通に。我輩も転宅繰り返したゆえこの先も音信不通となってしまうだろう・・・。
久方ぶりに会ったM氏は、がん検診で引っかかり最近まで検査の日々。「おいおい」と案じたけれど、無事に検査パスしての3月2日の呑み会だった。
「四人会」メンバーではなかったけれど、同時期に親しくなった年上の呑み友である、D社取引先の大手家電会社営業課長だったニシムラさんは去年二度目の入院となり、もう久しくお会いしていない・・・。

こうして親しく、まさに親しく酒を酌み交わした仲間がどんどん脱落してゆく。不条理なのは、我輩より年下の方々が亡くなることだ。
ま、「気に食わんヤツ」のM氏はかろうじて我輩と共にいまだ酒のグラスの縁にしがみついてはいるけれど・・・。

M氏は妹に言ってるそうだ。
「わしが死んだらスミちゃんに知らせろ」と。
我輩は家族に言っている。
「わしが死んでも誰にも知らせるな。ずっと生きとると思わせとけ。延命処置や葬式はいらん。この歳でもOKなら臓器全部提供してくれ」と言いふくめている・・・。
あの世があれば、母方の祖父と叔父、我が実父そして先に逝った仲間たちみんなと呑み続けたい・・・。

★「今夜の名言!」

「悪口を言われたら、悔しい、恥ずかしいとおもいますが、言った人も、聞いた人も、すぐに死んでいきますから、気にしなくてもいいのです」

「徒然草」より。「すぐ死んでいきます」で、グッときた・・・。

「仕事はイヤやったけど、あとが楽しかったなぁ!青春しとったなぁ!」

墨丸で呑んでいた頃のホソヤンの言葉・・・。

「三ケタ番号の人」 完

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