536「運命の分かれ道」

11.18.木/2021

★その分岐点

バイト休みのその日、夕方五時半に歯科医院の予約が入っていた。
治療後、古本屋のBookoffに寄ることにしていた。
たまたまその日がBookoffサービスディだったゆえ。
午後になって、ふと思った。
「歯科医の前にBookoffに行ったらええやん?」
これが運命の分かれ道・・・。

そのサービスディには購入金額に応じて次回使用の金券が付いてくる。
金券使用で数冊分がタダになるわけだ。
ゆえに最近は、サービスディ=Bookoff訪問日。※
でもこの日、結局DVDも本も、ナニも買わずに店を出た・・・というのも、Bookoffや古本市場では毎回二時間近くは書棚を巡っているのだけれど、この日は時間の余裕あったにもかかわらず、医院の予約時間が気になって気になって、背表紙題名目に入らず・・・で仕方なく次回訪問に向け目ぼしいブツ、記憶にとどめるだけで店を出た(上記理由で記憶にも留められていなかったと後刻知る)。それも、予約時間まで十分な余裕をもってして、だ。
そんな退出時間も、運命の分かれ道・・・。

※Bookoffや古本市場の馴染みになってからというもの、一般書店利用激減。
だって100〜80円で本が買えるんだもの。
ただ、こんな本は古本屋にはなかなか流れてこないだろうというようなのは一般書店買い。
最近では「”善良な市民”は、いかにして虐殺者になるか」という、大戦中にポーランドの一般市民で編成された警察予備隊が数万のユダヤ人をひたすら銃殺しつづけた実態とそのメカニズムを追求したという、アメリカの歴史学者による「普通の人々」(ちくま学芸文庫 1600円!)。
そして、我が少年時代愛読の漫画雑誌「ガロ」に掲載された「おせん」が収録されている、江戸を舞台に庶民の哀歓描いたコミック本「楠勝平コレクション」(ちくま文庫)。貧しいけれども日夜懸命に明るく働くおせんと裕福な若旦那との恋が、ある出来事で貧乏が骨の髄までしみこんだ女の性があらわになってしまっての破局迎えるシーンいまだ忘れられずの、数十年ぶりの復刊本!

で、Bookoffを出て歯科医院へとバイク走らせ、とある裏道の四つ角に差し掛かった。
左右確認し、発進した。
そのとき、前方対向車線の乗用車がなぜか発信せず、しばらく停車したままなのが気になった。※
数メートル走ったところで呼び止められた。後方から。
振り向くと、原付バイクにまたがった警察官が(ポリ公、「さん」ナシのお巡り、岡っ引きなどと呼び捨てたい心境だけども育ちの良さが許さず、とりあえずの警察官)。※

※先ほどの前方乗用車、「後ろにポリ公!」と、我輩の気をひこうとしてくれていたのかも。進行方向で検問中に、対向車がライト点滅で注意喚起してくれていた庶民の良き風習思い出して・・・ま、邪推するならばこのときは「あいつ捕まるぞぉ、アホや」だったのかも。
※自動車教習所に通っていた頃、教官の対応の悪さを祖父に愚痴ると、祖父「駕籠かきめが」と吐き捨てるように言ったのをいまも覚えている(言っておくが祖父は育ちが悪かったわけではない)。

でも、なぜ止められた?
みれば若い警察官。
速度違反?
我がバイクはミニカー登録の青ナンバーやぞ、原付き速度制限ナシ忘れてたら恥かくぞ、なぁんて一瞬思ったけれど、警察官「一時停止しませんでしたね」

一時停止?四つ角で?
速度落としたのは覚えている。
で、左右見通せずそのまま少し進んで左右確認し、発進・・・。
と、そんな合理的とも思える判断、弁解など、いったん決めつけた公権力ポリ公、いや警察官「ならば」と前言翻すはずもなく、「一旦は完全に停止しなくてはなりません」
車も人もゼロの深夜裏道の横断歩道赤信号で、歩行者が青信号に変わるのを寒風に震えながらぽつねんと待ち続けなかったことを指摘、呼び止められた心もち。かつ、最近の警察官のバカ丁寧な言葉遣いも嫌味にしか聞こえず、かつての「おい、コラ」警察官が懐かしく思えるほど・・・。※

※昔から「言葉」が気になっている。
読書中などに「?」との語句や語源、その発見のたびにページの隅を折っている。
先日は「戡定」という語句が気になった。
文章の流れから「平定」のことなんだろうと思いつつ、あとで辞書ひこうとページを折っている。
「おい、コラ」の「コラ」も気になる言葉だった。
が、これは辞書で調べずとも即日、判明。
あのNHK「チコちゃんに叱られる」のテレビ番組で。
新聞番組欄で「コラの意味」という見出しがたまたま目についての視聴(「たまたま」って言い回しも気になる)。
この番組、問題に対するゲストの間違った解釈に、五歳の女の子がキレて「ふざけんじゃねぇよ!」と大人を怒鳴りつけるシーンが醜くくって観ない番組なんだけど(教育上問題にならぬのが不思議)、この日は参考になった(観るたびに参考になるんだろうけど)。
で「コラ」は明治維新後、薩摩人が警察官に大量採用され全国に広まった言葉だそうな。
「コラ」はその地の方言で、話しかける際などに発する「ねぇ、ねぇ」相当の言葉なんだそうな。「ねぇねぇ、そこのお方」が「コラ、そこの人」となるわけで。納得。でもイヤ〜な語感。「コラ」なんて、我輩は愛犬にしか発したことがない。

そんな我輩が最後に違反摘発されたのはもう20年以上も前だ。
バカみたいな話だけど、その時は検問に差し掛かり「あ、検問!」と意識がそっちへ。で、検問手前の一時停止ラインを越えてしまって・・・天才じゃないただの「バカボン」。だけど警察も卑怯卑劣(これを逆恨みという)。
それからの我輩、ずっとゴールド免許保持者(単に摘発されなかっただけだけど・・・)。

で、警察官に訴えた。
「ゴールドだとサービスないの?」「ありません」
・・・なんのメリットもなかった「ゴールド免許」って、ポイントがようやく1万円分以上溜まったショッピングカードが、使用期限切れでポイント無効と知らされたカードみたい(バカなその経験者もかくいう我輩)。

「あ、大型免許も持ってらっしゃるんですね」などと、迫り来る歯科医予約時間気になるなかでのクソ丁寧なその言葉遣いに我輩さらにイラつき、この場でこいつの腰の拳銃奪い取ろうとしたら言葉つきどう変わるやろ・・・と本気で思いつつ、反則切符に捺印・・・指先が震えていた。
警察官「ん?震えてます?」
我輩「緊張。悪いことしたことないんで」
病気の後遺症で、左手になみなみのコーヒーカップ、右手に料理皿など持つと、コーヒーこぼしてはいけない意識で左手が震えてしまうんだけど、このときは寒さと理不尽さで(「病気で」と答えたら運転自体を疑問視されて話がややこしくなる)。「指名手配中やから」と言ってやればよかったと後悔。

公的カツアゲの手法による罰金五千円。
この日「早くでかけて」とふと思いついたことで、本の収穫ゼロはまだしも、こんな若造による屈辱と罰金が待ち構えていようとは・・・コレこそ運命の分岐点といわずしてなんという?
でも、遅れに遅れた歯科医院で受付女史に「違反キップ切られてて遅れました。罰金五千円。今日の支払いサービスしてやぁ」というと、毎回千円以上の診察料が五百円、だった。まさかマケてくれたわけじゃないだろうけど・・・焼け石に水。

それで現在、ながらく違反摘発免れていたこともあって、新たに気を引き締めねばと、五千円はその授業料だと、予定通り行動してたらもっと悪いことに出くわしていたかもと、おのれをなだめすかしている・・・。

そういえば、キレるチコちゃん、キレかけ逆恨みする我輩プラスで思い出したことが・・・。
十月末の京王線電車内無差別殺傷事件で、シートに座りタバコをふかす犯人の茶髪チャラ男の顔みて思い出したことが、そのプラスのこと。
先の、ポリ公いや警察官の「腰の拳銃奪い取ろうとしたら」というより、実はもっと過激な怒りでキレて(以前、小学校卒業以来「キレる」ことがなかったと記したけれど)、あるチャラ男に「殺意」覚えたほどの信じがたい気持ちを生まれて初めて抱いた出来事が、この夏に、あったのだ・・・。

殺人事件報道のたびに「殺すつもりはなかった」との加害者の弁明耳にするけれど、これは嘘だろう。
相手が死ぬほどの暴力をおのれが加えている最中にはきっと暴力以上の邪悪な気持ちが根底にあったはず。だけどこの夏のときは「お巡りさん」介入で大ごとには至らずで・・・いや、このチャラ男のことは思い出してもムカつくゆえ、気持ちが収まり冗談まじりで記せるようになったらあらためて・・・。

★ガキ帝国化

なんのためらいもなく人ふたりを殺害し、無期懲役囚となった美達大和(仮名)が手記で「囚人で真に反省している人など皆無に等しい。それは仮釈放に向けてのフリであって、皆が運が悪かった、相手が悪いとしか思っていない」と述べていたけれど、ふりかえるとチャラ男のときの我輩もそうであった。
死に至らしめるほどの集団イジメ、吐き気催すネットリンチ、買春めぐる少女と大人、育児放棄や虐待、子殺し、中高年者による駅員ら弱い立場の人への暴言暴行など、未熟ともいえる人々が引き起こす事件報道知るたびに、食生活改善からか現代人は昔にくらべ実年齢より十歳若いなどといわれて久しいけれど、我輩も大人らしい大人に成長していないとあらためて気づかされた・・・。

映画「陸軍中野学校」出演の市川雷蔵さんが亡くなったのは三十代の年齢、仲代達矢さんが「人間の條件」に出演していたのが二十代。
で子供の頃、大人になると彼らのように成るもんだと思っていた。
けれども現在の二十代三十代の俳優みても、雷蔵さんや仲代さん相当の大人の雰囲気、存在感有した俳優がいるだろうか。ま、雷蔵さん仲代さんらの内面は分からぬとしても見かけだけでもだ。
放映中の深夜テレビ番組「和田家の男たち」主演の相葉雅紀は四十歳間近の年齢設定の役柄というのに、見かけも言動行動もまるで高校生(脚本は我輩と同年代の敬愛する大石静さんなのに)。

産経新聞連載の「モンテーニュとの対話」(111回)では筆者の桑原聡さんが「二十歳の頃、八十歳ぐらいの井伏鱒二を喫茶店でみかけ、かっこいいと思った。(《「サヨナラ」ダケガ人生ダ》で知られる「勧酒」も収めらた『厄除け詩集』を読み返しながら)こんな大人になりたい」と思っていたそうだけど、「ところが、悲しいかな、いまだガキのまま。周囲を見渡しても年をとったガキばかりではないか。大人などひとりもいやしない。この国は成熟とは無縁のガキの帝国に成り果てようとしている」と述べている。

これらは、戦後のぬるま湯に浸かったような時代の産物なんだろうか・・・ただ桑原さんのように十把一絡げで断じるのはどうかと思う。
小説やドラマに心動かされたとき、「凄いなぁ」という感情抱かせてくれる作者らは、それこそ憧れの大人に匹敵する存在なんではと・・・。

が我輩に関しては、ガキのまま死を迎える年代に早くも達してしまったことが、残念かつ恥ずかしい。集団イジメ、ネットリンチ世代らが「大人」になった未来はさらに恐ろしい・・・。

「運命の分かれ道」(完)

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