321「恐るべき空白C」最終回

5.13.fri./2016

ながらく本編逸脱の「閑話休題」掲載でした。
というのも、病気での記憶喪失にくわえ、入院中のエピソードや読んだ本の評価メモ紛失。時の経過で記憶も不確かにという壁も立ちふさがりはじめ・・・で、我が病闘日記、これにて終了に。とりあえず、記憶を整理しての最終回。

★病棟移る

8月27日(木)深夜に救急搬送されての12日後の9月8日(火)、ようやく六階の急性期病棟から回復期病棟の三階に移る。

回復期といっても依然要介護ゆえナースステーションに最も近い病室。
各々のベッド回りをカーテンで仕切れる四人部屋。で、我輩同様皆さんよほど調子が悪いのか、終日カーテン閉じてらしてどんな方がいらっしゃるのか皆目分からず。分かりたいという余裕ある心境などなかったけれど。
こうして周囲との会話のない日々が9月27日まで。日に三回、各45分間のリハビリのぞいてのベッド生活がこれで一ヶ月続いたわけだ。

★回復期病棟での症状

依然として左手足がマヒ状態で自力で立つことさえもできぬ。
ゆえに移動は第三者による車椅子。

それで最悪なのが、トイレ。
転倒防止のためと便器に座るまで看護婦さんが付きっきりなこと。
「日本男子たるもの見知らぬ婦女子に尻みせるような屈辱は」とトイレ終了後一人で身じたく整えトイレ内に置かれた車椅子に勝手に移動しては看護婦さん怒られ・・・日本男子ながら恥ずべきことにこの場合「すんません・・・」
かつ、日頃仕方なく公衆洋式トイレ使用の際は便座にトイレットペーパー敷いて、という今までの我が潔癖さなど看護婦さんの目前で主張できるわけもなく・・・でもこれには順応するものだ。退院後は元の潔癖症復活だったけれど。

もっと信じられなかったのが、入浴。
この三階では脳出血による記憶喪失は復活段階だったけれど、六階での入浴は一度ほどは記憶にあり、確か理学療法士男性のHさんが手助け。
それが三階での初めての入浴介助が、二十歳代の女性が一人で。
見知らぬ婦女子の目前で日本男子のいまや痩せ衰えた肉体晒すという恥ずべき事態。これにはショック。風俗行き慣れてる方は平気なんだろうけど。いや、うれしいかもなんだろうけど。

ま、万引きなんぞも一度経験すれば二度目からは平気というけれど、この入浴の気恥ずかしさも・・・二度目からの我輩担当作業療法士の男性Nさん主に女性数名が風呂場にいらしても平気に。慣れというものは恐ろしいものだ。戦時中の軍人による民間人殺戮もだろうか・・・後日Nさんに聞いてみた。
「女性患者にも男性が入浴介護するんです?」
「女性には女性です」
「そりゃおかしいでしょ、男にも男でしょ?」
「Sさんほどの年齢になればもう動じたりしないでしょ?やっぱり若い男の子はね、男性がつきますけど」(動じたンですけど)
(十代、二十代でも我輩と同病の患者がおられるそうだ。ご注意を)

我輩と同年代の、名曲「想い出ボロボロ」「六本木ララバイ」のハスキーボイス歌手内藤やす子さんも10年前に酒と煙草、不規則な生活習慣で脳内出血で倒れたと後日知る。彼女は我輩と逆の左脳で、永く続く失語症や記憶障害に苦しんでいらっしゃるとのこと。
同じく、漫才師大介花子の大介さんは倒れても職業柄冗談だろうと思われて死の一歩手前までいったとか。我輩も発症時に常連さん方がいらしたら「また演技!」だったろう。我が妻リ・フジンならば、息が途絶えても「わざと息止めてるッ」だろう。

依然として困ったのはマヒによる「味覚喪失」での摂食障害。
以前述べたように空腹感や喉の渇きさえも感じぬゆえ、食事時の水やお茶は脱水症予防や血液を薄くするためにと強制的に飲まされる。
が、昼食時に出る紙パックのアップルジュースまではもう飲めず、「部屋で飲みます」と病室持ち帰って隠しては貯まるわ貯まるわ。見舞客が来られるたびにこっそり持ち帰ってもらっていた。

で、この三階では週に一度「体重測定」がある。
以前も述べたように、入院前に60キロほどだった体重が10日あまりで51キロに激減。で、点滴生活に戻ったりもした。
※ 見舞客「痩せれてうらやましいわぁ!」
我輩「ヘタなダイエットより10日ほど有給休暇とってメシ食わんと寝とったらてきめんやで」

そんななか主治医に「体重50キロ切ると胃ろう手術せねばなりません。無理してでも食べてください」と、腹に穴開けて云々の手術を示唆。
病院朝食の主食は無塩食パン二枚。昼と夕食は白飯各250c。
が、昼食もパンに変更してもらい(食感アリだけの理由で。でも口にできたのは一枚未満)、夕食白飯も「もったいないですから」と半分の量に減らしてもらっても、ふた口ほどが精一杯。

それゆえ、この病棟では病院食以外は見舞いの品でも口にできない規則だったけれど我輩のみ特別に「なんでもお好きなものをお見舞いの方々に持ってきてもらって食べてください」と。
また、我輩のみ病人用の高カロリーアイスクリームを食後に提供された。
幸い甘みだけは感じ、言語療法士のO女史などは療法の合間に(言語や知能には問題ないゆえ時間持て余し?)菓子やコーヒーなど勧めてくれた。
それらの中で三幸製菓の煎餅「雪の宿」が、その柔らかな食感とほのかな甘味で唯一のお気に入りに。
※ 「糖尿病に注意」といわれた。現在、甘みは感じても完全ではないのか、従来コーヒーの砂糖スプーン一杯が一杯半に。今まで見向きもしなかった饅頭なんぞもペロリだ。体重は、自宅に戻ってから一時49キロまで落ちてしまった・・・。

「この味覚障害は今後どうなるんです?」と三階でのリハビリ専門医に問うと「この症状は長引きます。・・・とりあえず亜鉛処方しときましょ」
味覚障害に亜鉛効果ありとは知ってはいたけれど「マヒ」でも「亜鉛」?
・・・で、効果ナシ。名医と聞いてはいたけれど。

★一般病室に移動

9月27日(日)、一般病室に移動。
同室者三人に我輩勝手にアダ名つけ、それぞれの方の面白エピソードをメモってたのにそれも失くしてしまって・・・。

たとえば、病室での個人的リハビリを指示されても我輩二、三度実行しただけでサボりつづけていた。
朝一番に枕元のボードにその日のリハビリ開始時間が記入される。が「本日休み」なんてあると学生時代の休講の喜び感じたり・・・理学療法士のMさんに「今日は自主トレ何をどのくらいしました?」などと聞かれようものなら(何が何分やったっけ?)とパニクる始末。
でも隣ベッドの「関東さん」(標準語喋るゆえ)、いつも廊下で歩行訓練。
「血液型Aでしょ?」と問うと、そうだった。
よく「つらいリハビリを克服して現場復帰」なんていうけれど我輩「適当にやって復帰」の感。リハビリ中も理学療法士のMさんに「Sさんってあまり落ち込んでませんね?」
要するに「脳天気」。が、この時点では後日知る「寝たきりか一生車椅子」との当初診断露知らず、「リハビリで改善します」の療法士さん達の言葉を単純に信じていたのと、マヒが利き手側じゃなかったことにもこれはよる。まさに「病は気から」?

★杖歩行に

10月4日(日)、杖での歩行可能に。
退院時に聞くところによると我輩、先ほど述べたように一生車椅子生活などのはずで、今回は奇跡的な回復だったとか。
で、車椅子を自分で操作する段階飛び越しての杖使用で歩行してると看護婦さん達「あ!Sさん歩いてる!」
我輩「進化した猿です」。それほどの進歩だった。

★杖なし歩行に

10月12(月)、一人歩き可能に。
10月17(土)と20日(火)、外出オーケーに。
我孫子の店に行ってみると店内の観葉植物、すべて枯れ果てていた・・・。

★退院?

11月3日(火)、外泊オーケーに。
ならば退院も可能だろと、三ヶ月入院予定早めて二ヶ月あまり経過したこの日、急きょ退院させてもらうことに(入院費もバカにならぬもの)

でもこの日、叔母が危篤との連絡はいり八尾市民病院まで。
後日、叔母死去。そしての葬式。
その疲れでか我が母が自宅で転倒し骨折、緊急入院と、病院づくしの日々が今も続いている・・・。

★後日談

病棟のベンチに座ってて「あれ、後ろポケットに何入ってんねんやろ?」とゴツゴツした尻の痛みに後ろに手をやると、患者着にはポケット自体がない?
そう、尻の肉が落ちて骨がベンチにあたる痛みだったのだ。
劇映画で収容所や貧民街の痩せ細ろえた人々が出てくるたびに「こういう出演者たちの手配って?」と疑問だったけれど、たぶんボクたちみたいなのも使ってるんやなと。いまも自宅では厚めの座布団使用中。

退院後、2月末には喉の渇きの感覚が、3月に入ってようやく空腹感が少々戻る。
が、依然として好物だった「焼き鳥」ふくめての「肉」「魚」「米」の旨味分からず。で、体重はいまだにたった1キロ増えての52キロ。
尻の痛さは前回記した「椅子や脚立からの転落事故」もありいまだ回復していず、ヒビでも入ってんちゃうか・・・の状態。

そうそう、我輩入院中、なぜか日頃口にしない麦焼酎のレモン入りロックが無性に飲みたくなり・・・退院した夜、そのロックを八杯かつビール、ウイスキーロックをあおり、椅子から転倒。頭を打って起き上がった途端また転倒。同じ箇所を打って血だらけに・・・懲りない我輩である。

そんなこんなで今までと同様の深夜仕事では「再発あり」と医者に宣告され、かつまたシェイカーも包丁も扱えずで、やむなく墨丸閉店に至った次第である・・・。

「恐るべき空白」完

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