395「ガジュ丸の呑酒暦 睦月」( 千代田篇)

2.23.fri/2018

★「書を捨てよ町へ出よ」

携帯電話などなかった古き良き青春時代、黒電話は相手の親や大家さんが介在することもあり気軽にはかけられず、友人との主な連絡手段は往復書簡。そんな頃の我輩、いうならば「手紙魔」だった。

友人男女はもとより、当時の各種月刊雑誌掲載の「文通希望」欄から趣味が同一な相手見つけては(この場合は異性が相手。男相手となるとちと気色悪いだろう。いや大いにだ。男色系雑誌愛読者ならいざしらず)日夜手紙を書いていた(日記は三日坊主となるワケだ)。ネーム入りの便箋、封筒を作りたいとさえ思ったほど。果ては英国女子学生ともやり取り始めたけれど、コレはもちろん我が能力追いつかず、あっという間に、挫折断念。

ゆえに当時「書くネタ」求め、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よ」とばかり積極的に町に出かけていた。はたち過ぎれば(過ぎてなかったかも)夜の街に独りででも呑みに出かけていた。

で、最近思った。
いまの仙人暮らし(いや、浪人暮らし)の引きこもり生活打破するためにも、ふたたび「ネタ」求めて町に出よう!と・・・。
「ネタ」は絞って、テーマを「酒」にした。
月に一、二回は外で安酒を呑む(墨丸時代には安酒など見向きもせずの夜食を兼ねて夜ごとだったけれど・・・)。我が家「墨丸亭」では毎夜毎夜である。病後にもかかわらず、ひとり漫然と。
それを活用しよう、多少なりとも意味あるモノにしよう。そのなかで特記といえるべきコトを、特記できるよう心がけながら呑みかつ見つけていこうかと・・・。

★「呑舟亭」

などと、持ち金もないのに思いついたのは、2月のあるできごとゆえ。
その件は次回如月篇で後述するとして、本文の題「呑酒」のことを・・・。
「呑舟之魚」という語句がある。
船を丸呑みするほどの大魚のことだ。「大人物、大物」の意もあるらしく、高野山の亡き祖父宅軒先にこの言葉からの「呑舟亭」なる木彫りの看板が今も残っている。今や廃村の、衰退しつつあった頃の村の空き家に下宿していた、高野山大学の学生が酒呑みの祖父に贈ったものだ。「呑酒」とまず考えたらしいがあまりにもあからさまゆえ「呑舟」としたとか。

で敬愛する祖父忍び、我輩もこの連載、「大物」ではもちろんないゆえ「ガジュマルのドンシュゴヨミ」と「酒」の字入れ名付けた次第。
さてキリよく1月分からの連載と決め、さかのぼっての「呑酒」から始めようか。「濃い」ことに遭遇し続けられたらいいのだけれど・・・。
※高野山については、144「高野山たどり着き隊物語」参照。

★睦月の「呑酒暦」は・・・

1月中旬すぎ、「我が家で飲みませんか」とメールが。
墨丸のかつての常連サン、某大学のM先生からだった。

大阪我孫子での店住まいから8年ぶりにKN市に生活が戻って気になっていたのは、千代田3号店時代に通った旬菜居酒屋「あ」の移転先のこと。
南海高野線「滝谷」駅付近に移転と千代田在住のM先生に以前伺ったことがあり、一度駅周辺を探索。その後電話帳でもチェックしたのだけれど結局不明。で、M先生に再度問うてみたその返信だった(そういえば「あ」のことは不明のままだった・・・)。

で、訪問日が29日月曜夕刻と決まった。
その日、連載「露出した臓器の話」の延長で、千代田のメガネ店にレンズの注文に寄り、その足でM先生宅に向かった。
※「露出した臓器の話」最終回掲載が延びのびになっている。ソレには理由があって・・・近々ご報告できるだろう。

★要塞マンション?

6時頃訪問予定がこの時点、6時を30分近く経過していた。
とりあえず遅れる旨の連絡はしておいたのだけれど・・・目の前にそびえ立つお住いの高層マンションに行きつくルートがわからない。道路とマンションの間をテニスコートやら木立が遮っていて。さまよっているとマンション方向に向かう小道発見。なぜか街灯もないそこを進むと行き止まり・・・。

そんなこんなでようやくルート発見し、マンション入り口インターホンで出入り口の扉開けてもらいホールに入ると、エレベーターは?
壁の小さな貼り紙に気づく(言っておくが紙である)。
そこには「エレベーターA」と書かれていた。と、ホールから見えない場所にそのエレベーターホールがひっそりと。ソレに乗って目的のホール11階へ。
降りる。
小さなホール挟んで両側にふたつの玄関ドア。
・・・どちらにもM先生の表札はない?
再度1階に降りる。
よく見渡すと「エレベーターB」の貼り紙も。
そこにも隠されたようなエレベーターが。
でも発見したエレベーター扉脇に見つけた各階号室表示板にはM先生の住居はない?

先生に電話す。「たどり着くには?」(ココまで来て、だ)。
で、迎えに来ていただくハメとなる。
・・・このマンション、各所に何台ものエレベーターがあるという。各階2軒に1台の割合で。贅沢な作りだ。そしてそれらの位置表示が入り口ホールに皆無なのだ。
バブルの頃に建設始まり億ションとする予定が、バブル崩壊。ゆえに基礎部分は設計通りながら、内装などは結構安普請になっているとM先生。勝手に部外者が訪ねて来ぬようプライベート重視の設計でもあるようだ。ガス会社に勤める我が身内も、「あ、あそこ?点検訪問しても難儀するトコや」と。

★初回にふさわしきかな、濃い「睦月」

食卓には整然と、先生手作りの数々の小鉢物と「コレはオススメです。お好きでしょ」との鯵ふくめての刺し身の大皿が。そして地方産の珍しき麦焼酎が食卓にデンと。
「え、先生ワイン通でしょ、ワインはよく分からんのでボク、日本酒持参しましたが」と、久保田千寿4合瓶をデンと。
「イヤ、マスターは麦焼酎お呑みになると聞いて」「え、先生も焼酎呑まれるんですか?」「呑むとしたら芋ですけど」・・・こんなにも気を使ってくださる経験なんて、いまやリ・フジンいや山椒大夫と呼ぶようになってしまった我が妻との新婚生活以来ではないか・・・。

この夜ふたりしてまたたく間に久保田カラにし、さらに先生所蔵の地酒一升瓶の封を切り、真夜中過ぎまで呑み続けたのだった。
気づくと、タクシー求めてふたり肩組みながら千代田の路上をヨタついていた。
ようやくタクシーつかまえ、先生「コレ!」とタクシー料金我輩に押し付けようとしたけれど、我が理性残っててよかった・・・けれど、我が家の手前で持ち金足らぬと気づきタクシー降りるハメに。そのあと三度ころんだ。家で二度ころんだ。翌朝、体中傷だらけなのに気づいた。

M先生にお礼のメールとともにその旨ご報告すると、「私もどこかでコケたらしく、額と手にキズが・・・」との返信。
久しぶりに「人生を謳歌」できた濃い〜夜であった・・・が、ふたり、深夜までいったいナニ喋り続けていたんだろ・・・。

※終電あったとしても、タクシーでよかった。
でないと、駅の階段からきっと転げ落ちていたに違いない。墨丸時代にもなかったような酔いっぷりだった。「ガジュ丸の呑酒暦」初回にふさわしい濃い〜夜と相成った次第。

「ガジュ丸の呑酒暦」つづく

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