428「24時間戦えますか?!・・・もう戦えません」最終回

9.6.thu/2018

「幹部候補生Sッ。貴君を管理職養成研修会担当、[参謀]を命ずッ」
・・・翌日、辞表を郵送した。
※参謀:高級指揮官を補佐して作戦・用兵その他一切の計画・指導にあたる将校。転じて、計画・作戦を立てる人(広辞苑 第三版)。

★もう戦えません

S隊員と呼ばれた我輩、20代の若輩ゆえあの精力的かつ押しの強い隊長こと社長に、「あの研修は研修と呼べるモノじゃありません、催眠教育です。だからわたくしは参謀などできません、会社辞めます」なんてコトとてもじゃないけど面と向かって言えるはずもなく・・・かつ、若輩者の弁などいとも簡単に覆されそうで。また、社長の肝いりで初めて実施されたという今回の「1ヶ月研修」、bQはそんなにも日にちかけることに当初反対していたというその終盤には研修生たった三名となり、いままたわれ一名減となること申し訳なくこれまた合わせる顔などないではないか(コレって洗脳済み?)。
で、給料のことなど脳裏にも浮かばずして、一身上の都合云々だけしたためた辞表郵送したわけで・・・。

★南国女は気が強い

いまリ・フジン、山椒太夫と呼ばれる南国土人祖先の我が妻「生活どうすんねんッ」とばかりに後日、我輩に内緒でO社に赴き一月分の給料ちゃっかり手に入れていた・・・前職Z団体のわずかながらも退職金手元にあったにもかかわらずだ。これを「男のメンツ潰されたッ」と本来ならば我が妻、罵倒、蹴飛ばし三下り半叩きつけるところなんだろうけども我輩、「骨川筋衛門」「いのちかげろう」と揶揄されるほどのひ弱さゆえ、「ああ、秋田美人探しゃよかった。ほんでも関西じゃ北国日本女性って会ったこともないしなぁ・・・」と嘆くだけの体たらく・・・。

★新たな仕事

しかし我輩、あらたな職を探さねばならぬ。
家族のために。気の強い、祖先人食い人種やもしれぬ南国女のために?

そうして見つけたのが、大阪難波駅近くの業務用厨房機器メーカーS社。
そんな仕事に全く興味はなかったけれど、これまた若輩者のバカの一つ覚え、募集キャッチフレーズにまたもや惹かれての応募。
ただし毎回、給料面に惹かれてではないのは確か。高給提示の会社など当時でも今のブラックに決まっていたもの(とは言いつつ我輩、ヘンな会社に行き当たってしまうんだけど・・・)。

S社は確か、社長側近求めるというような募集内容。
入社試験もなく社長、重役面接のみで採用されたのは、我輩ふくめ三名。
N市教育委員会出身者と、とある商社から転職の中年お二人とだった。

★なんかヘン

この会社もヘンだった。
「研修を」と初日、和歌山白浜のS社員保養施設マンションの一室へ、専務との一泊二日。
その「研修」担当専務いわく、「特にナニをするというわけではありません。皆さんと共に過ごし、お互い理解し合うためのこれからの時間です。夜には社長も参加されますので夜を徹して語り合いましょう。それで入社されるか否か最終的にご判断下さい」なんだけど・・・

夕刻、社長来訪。
転職組お二人と年齢変わらぬ四十歳代の方。
夕食終え、マンション一室で車座になっての雑談開始。
そこでの唯一印象に残っているのが、社長の「オーラ」のお話。
なんでも社長、人が発する霊気が感じとれるのだという。
例えば、堕胎した女性のオーラは一部欠けているとか・・・で、我ら三名の背中にあるというオーラを手かざしでチェック・・・結果は教えてはくれなかったか忘れたかだけど。

帰阪翌日、入社断念の手紙を提出した。社長不在時に。
後日、S社残留転職組お二人から電話があった。ミナミの某焼き鳥屋で会おうと・・・。会った。
で、「朝礼で社長、Sさんの入社断念の手紙披露してなぁ、こうでなきゃイカンとかなんとか褒め称えてなぁ。そのくせわしらにはSさんのことボロカスに言うててそれもおかしいんやけど(手紙内容我輩もう覚えてもいず)、Sさん、若いのにどうしてそんな会社のことわかった?」
「は?」
「いや、私ら入社して仕事らしい仕事って与えられてないんですわ。実はいまは社長宅の新築工事現場の監督。それがね、客間の掛け軸の裏に地下への抜け穴みたいなもん作ってはって、なんかそこに博打場でも作るんちゃうかって二人で噂してるんやけど・・・」

我輩はあの「オーラ」話が馬鹿らしくってS社見限ったのは確かだけれど、同時期に他社にも応募。後年脱サラし、墨丸開業まで長年働くこととなるD社からの採用通知が届いた事もあっての入社見送り(D社も過酷。が、先輩同僚には恵まれて)。
で、お二人が驚かれるような高尚な考えなど毛頭なく・・・。

★それぞれの終章

この会社は大阪から市街に移転し今も存続。
我輩が後年D社での商品開発担当となり各種展示会に出向いていた頃、厨房機器関連の会場でこのS社のブースも・・・そこだけは避けた。あのような会社と商談する気もなく、霊感社長に会いたくもなく・・・。
でもあの中年お二人、あれからどうしたんだろうとふと思った。特に商社出身の方は障害者の息子さんがおられて。ま、充分年上やから若輩モンが気にしてもしゃあないわとすぐ忘れたけれど・・・。

数年前、O社名をパソコンで検索してみたことがある。
あった。ここも21世紀に存続していた。
メイン商品は当時巷で話題にもなっていた、一般家庭のとある水回り商品。社長、bQはそれぞれ会長、社長となられてご健在。「研修」は実施していないようだった・・・。
で、思った。
共に24時間戦った研修同期生の、家族と別居中と明かしてくれた少し年上の戦友、共にキャンペーンポスター配り回った年下の戦友、もう名も記憶にないあのお二人はどうしたんだろ、と。
後年、D社社用車で泉北方面走っていての赤信号。その反対車線のガソリンスタンドで、あのO社bQがスタンド従業員「研修中」の姿を偶然見かけたことがある。O社巡回軽ワゴン車は街角でその後も見かけたこともある。

両社通じて言えるのは、共に社員さんたちの表情暗かったこと。
なんとなくその原因分かるような・・・我輩もあのままどちらかで働いていればと考えると、ああ、運命ってふとしたことでまるっきり変転してしまうもんだなとつくづく思う。また、あの時のあの人々とはもうまるっきり違う世界に生きてるんだとも・・・。

そして皮肉にもD社、我輩退職後しばらくして労働基準監督署査察が入った。
D社の過酷なサービス残業にメスが入り、大幅に労働改善されたと知ることに・・・。

★そしての現在

こうして過酷な「24時間戦えますか!」時代を家族のために働き続けてきた我ら世代は、もう目覚まし時計捨て去って、あの頃夢にまで見た延々と眠り続けること「ナニが悪い!」と言いたい。
なのにリ・フジンこと山椒太夫、「朝日浴びろッ」とかなんとか、うるさいことうるさいこと。「亭主元気で留守がいい」を「女房元気で」に置き換えるとその気持ち、良っくわかる昨今・・・当時、世の企業戦士たちが狂喜した岩崎宏美の「聖女たちのララバイ」、あの歌詞の世界などありえぬモノと悟ってしまった昨今でもあり、もう誰にも怒鳴られず、ヘンな人や話にも無縁の、ひっそりとした余生を過ごしたい・・・。

♪この街は戦場だから 男はみんな傷を負った戦士 どうぞ心の痛みをぬぐって 小さな子供の昔に帰って 熱い胸に甘えて・・・(アホか)。

★訂正

当時「家族のために」との言葉をよく耳にしたものだ。
けれどサラリーマン時代、周囲見渡し「家族のため」は大いなる欺瞞ではないかと思っていた。戦争前後の世ならいざしらず、「親はなくとも子は育つ」ほどの豊かな現代社会、皆おのれの保身だけで働いていたのではないか。「家族のため」と歯を食いしばっての姿、そんなオーラなど誰からも微塵も感じ取れなかったように思える(あ、洗脳されてるッ)。ただただ次の会議を、次のノルマをいかにして乗り切り社内で生き残るかの、戦争前後とは違う、別の精神的余裕のない社会で働いていたのではと・・・。

いや・・・家族かえりみず、ひたすら自分が生きたいように生き、転職繰り返し続けた我輩ゆえ、これは自己弁護にすぎぬか・・・が、リゲイン、ユンケル何本も飲みながらの「24時間戦えますか!」時代をどうにかこうにか生き抜いてきたことは確か・・・ま、我輩は「アリとキリギリス」のキリギリス的末路やけど・・・。

「♪黄色と黒は勇気のしるし 24時間戦えますか ビジネスマン ビジネスマン ジャパニーズビジネスマン!」

栄養ドリンク「リゲイン」CMソング。アホか・・・で、完

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