497「コロナ禍の出発」

9.10.tue/2020

懐古趣味とでも言うんだろうか、我が弟妹からそのたぐいの話は聞いたことがないけれど、我輩は幼少期から今日までに移り住んだ各地をなんどか訪れている。

我輩が生まれた和歌山高野山を始めとして、物心つかぬ頃から小学6年までを過ごした大阪の阿倍野、中学高校時代の和歌山南紀訪問のことはこれまでにも記したけれど、その学校生活狭間の3年間を過ごした和歌山の紀北へは現住居から最も近しのはずなのに、個人的には訪れたことがなかった。
他に京都岩倉、東京多摩や三鷹も一度は訪れてみたい地だ。
同様に仕事場だった大阪の平野、森ノ宮、八尾、宝塚などにも・・・。

★ふらりと

8月4日、わが妻リ・フジン通勤使用のクルマが空いていたゆえ、猛暑予報下の昼下がり、ふらりとクルマに乗り込んだ。

「いざ!」という気分でなく、BOOK・OFFもダイソーも2nd STREETも行き飽きたからに過ぎず、「ふらり」とした出発で・・・ま、人はこうしてそのまま蒸発したり、自殺するケースもあるんだろうなぁと、ふとそんなことを思ってしまうような気分のもと。

そうそう、遺書残さず自殺のケースがあるけれど、若い頃は「なぜ?」と思っていた。
例えばイジメ原因での場合、イジメた奴らの氏名告発して死んだれよなんて思っていたけれど、そんな場合だけじゃないんだと後年思うように・・・ある日、地下鉄ホームでふと電車に飛び込む衝動にかられたことがある。
死神に魅入られるってのはそんな場合のことを指すんだろうが、その時まさに遺書のことなど心の片隅にもなく、単に「ふらり」とした気持で。
その時「遺書」残さぬ死の一端を垣間見たような気がした。
「死ぬ勇気があれば」なんてのはまったくの詭弁だとも。
死を目前にして遺書をしたためるなんてのはある種すごいことだとも。

PS:地下鉄職員から聞いた話。
鉄道自殺の場合、私鉄やJRからは遺族に賠償請求されるけれど、大阪市営地下鉄は請求ナシだとか(メトロなんて西洋かぶれみたいな呼び名つけるなよ)。
理由は定かではない。
酒の上での話ゆえ、嘘か真かも定かではない。
鉄道自殺するなら請求される家族のこと考えろよ、とこれもかつては思っていたけれど、そんな心の余裕なんてのもないんだ、たぶん。

PS:「死はすべての解決策だ。人間が死ねば問題も消える」ヨシフ・スターリン(彼らしい言葉)。

★すぐ近くに

この日の行き先は、小学6年生三学期と中学の2年間を過ごした和歌山紀北の九度山だ。
こうして多感な時期ともいえる小中ともに修学旅行は馴染みの薄い同級生と。卒業アルバムも馴染みの薄い校舎なんかが写り込んでいる。
高校も三学期で転校のはずだったけれど、これは編入試験に落ちて免れた。
当時「サインコサインなんになる」の完全落ちこぼれ学生で。
ま、それで生涯の友もでき、総体的に「幸」な青春送れたわけだけど。
でも高校修学旅行は不参加。費用を映画館通いにつぎ込んで・・・。

で、この日のささやかな旅は自宅からクルマでたった40分ほどの、片道約23キロの行程先。ナビがあればもっと短縮できたかものこんな近くにも思い出の地がの感。
到着地の「柿の郷」という道の駅は、かつて住まいの官舎周辺の広大な営林署貯木場跡地の一角に建てられている。
その官舎隣接の、署所有だったテニスコートとその周辺は芝生の緊急避難場所兼緊急時用ヘリポートに変貌。
自宅庭に使われていない木組みの火の見やぐら(!)のあった官舎はもとに戻されたのか消防署事務所に建て替えられていた。火の見やぐらも撤去され、唯一見覚えあるのは庭先にあった直径1.8メートルものセンダンの巨木のみ・・・。

★なのに・・・

近距離にもかかわらずいままでこの地を個人として訪れていなかったのには理由がある。
その火の見やぐらの「上で女と○○しとるやろ」などと小学校同級生にからかわれ(またそれに類する野卑な言葉など転校前の大阪の小学校では耳にしたこともなく)、長髪、半ズボンの我輩は坊主頭、長ズボンの同級生にとってイジメの好対象のようなもの。さらに教師もそれを見て見ぬ振りという嫌な思い出の地ゆえ。
おかしなもので、この地から南紀の中学に転校すると坊主頭は我輩だけ(紀北の中学校則では男子は全員丸刈りだった)。
でもその新天地では「テカいっちゃん」のあだ名で同級生に親しまれ、山の紀北と海の紀南でこんなにも人って違うのかと子供心に思ったものだ。

近隣小学校から生徒集まる中学ともなると陰湿なイジメはなくなったけれど、その中学時代こんな事があった・・・
仲の良いグループと雑談中の休憩時間、かつての小学同級生A(イジメ傍観者)が割り込んでき、「こいつ小学生の時、いじめられててなぁ」と毎度のごとくのいらぬ告げ口。
たまりかね「お前、そんなことばっかし言うから友達できれへんのや」と言い返すと、実際友人のいなかったAは泣き出した。
そのときザマァみろなんて思わなかったけれど、中学生でも泣くんだと驚いたものだ。
で、本人はいまもこのこと覚えているかもと、後悔などせぬものの時折思い出してしまう。仲間入りしたく、そのきっかけにそんなセリフしか思い浮かばなかったのかもしれないなどと・・・。

★歩いて歩いて

クルマ駐車させた道の駅は、何年も前に墨丸のお客さんたちとの野迫川温泉旅行時に短時間立ち寄った時のまま。
前述の、個人的には訪れていないというのはこれら嫌な思い出あつたゆえ。
真田幸村テーマの大河ドラマ放映当時はさぞかしの人出だったろうに、訪れたこの日の火曜日は閑散としていた。

三年前記述の、343「歩いて、歩いて」で、自宅から最寄り駅まで徒歩なら何分かと歩き通したことを記したけれど、その時この九度山時代に学校までの距離が相当あったこと思い出し、実際どのくらいだったのかをも検証したくこの日訪れたわけでもある(ヒマ人と思われるだろうがこのコロナ禍、行動的な性の我輩でも他にすることを思いつかず・・・)。

かつての住まいから小中学校へは2ルートあった。
小学時代に記念切手を収集していて発売日に早朝から並んだ郵便局や文房具店など数少ない商店のあった坂道のルートと丹生川沿いの平坦な自動車道の2ルートだ。
道の駅からすぐの、丹生川にかかる入郷橋を渡るとその分岐点。
暑い。
「ふらり」の出発ゆえ、水も帽子も用意していなかった。
自動販売機も見当たらぬ。
こんな町で熱中症で倒れたくもない。
かの松下幸之助は生まれ育った土地が嫌いで、大成後その地にはなんらの寄付もしなかったと当時聞いたことがある。子供心に我もと思ったものだ。

橋の左下では丹生川が紀の川に合流している。
右下は深みもあるかつて泳いだ場所だ。
が、猛暑の昼下がりというのに、夏休みだろうに人っ子一人泳いでなどいない。
行きは坂道ルートを選んだ。
前述の何年か前にこの地に立ち寄った際、道の駅の地元飲食店案内チラシに懐かしい同級生女子の名字が屋号の店があるのを知った。
彼女の自宅場所だ。
少し好きだった子でもある。
この坂道ルート裏にその店があるはず・・・が、廃屋や表札が外された家が連なる路地に、店舗らしき家屋は見当たらなかった・・・。

散策中も、軽四に乗り込もうとしている老人とよそ者らしきバックパッカーとすれ違っただけ。以前457「夢か、まぼろしか?」で記した南紀田辺市内のシャッター商店街同様のさびれた雰囲気。灼熱の陽射しもその時と同様。見かけた2軒の喫茶店も定休日ではないのに閉まっていた。これまた田辺商店街と同様、漫画家つげ義春描くところのモノクロの白昼夢の町のようだった・・・。

★思い出ボロボロ

小中学校へそれぞれ道が別れる地点、南海高野線九度山駅(無人駅に!)まで要した時間が20分あまり。
住まいから学校までだとおよそ30分ほどの距離か。思っていたほど遠くはなかった。
その駅舎の外で撮られた幼児期の写真が我が家に残っている。当時なぜそんなところにいたのかわからぬが、同じ場所を写真にとってみる。プリントして比べてみたら感慨深いものがあるだろう。

まず小学校に向かう。
駅から跨線橋渡れば校舎だ。
跨線橋の手前坂道は、生まれて初めて人を殴った場所だ。
当時のイジメグループの一人、Bのネチネチした物言いにキレて・・・で、Bのようなタレ目の男に終生嫌悪を感じることとなった。かつ、もっと上手い殴り方を身につけておけばよかったと、これはいまでも後悔。

先のAへの文句といいBに対する行為といい、子供の頃はこうしてキレてしまうことがあったのだ。
そういえば大阪の小学時代にもキレたことがあった。
前席の級友が授業中ふざけて何度も振り向きちょっかいを出してき、思わず鉛筆でその子の手の甲を刺して・・・大怪我するほどではなかったけれど、後日見せられた甲にはホクロのようなった黒い傷跡が残っていた。でも、その級友とはその後も仲が良かった。
青年期以降はキレることもなく、結構我慢強い人間になったと自負している。人には「羊の皮を被った羊です」と言っている。「まさか、あの人が?」なんて報道ネタになるような加害者タイプなのかもしれない。

※7月に観た2018年の日本映画「ミスミソウ」(内藤瑛亮監督 山田杏奈主演)は、東京から地方の中学に転校した女生徒が同級生達のイジメに復讐するという話で、痛快。イジメられっ子よ、主演の春花ぐらいの気概を持て、だ。

行き着いた先はかつての木造校舎ではなく、まるで見知らぬ鉄筋コンクリート校舎。元がどうだったか皆目見当もつかぬ。で、駅に戻り反対側の中学へのルートへ。
線路沿いの、人一人が歩ける幅の小道は昔のまま。
小道抜けて出くわす運動場裏門も昔のまま。これはサビつきツタ草が絡まっていたけれど・・・。
運動場フェンス沿いに進むと校舎正門に通ずる長い石段がある。
石段手前の左手に確か土俵が設けられていたはずだがそれはなく、右手はコンクリートの上り坂が続いている。校舎を一周している道だ。
そこでクラスメイトのCとふざけていて自分の前歯をコンクリートに打ちつけ、いまでもその歯は少し欠けたままだ。何十年か前にいま暮らす地元のバスに乗ったところ、その運転手が偶然にもCだった。「コレ欠けたままやぞ」と前歯見せるとCはまったく覚えていなかった。それからCには出会っていない。

この中学から南紀に転校する際、クラス全員からの幌馬車の形をしたオルゴールを記念に贈られた。
代表してそれを我輩に手渡したのは小学時代のイジメグループの一人だった。ゆえに嬉しくもなかった。
けれど大阪の小学校を去るとき、校舎裏のジャングルジムだったか滑り台だったか、その上で、そんなに仲が良かった覚えはないのだがクラスの川崎くんと井上くんと一緒にいて、クラスのボス的存在だった川崎くんが(井上くんはその子分だった)「コレやる」とポケットから二つ折りの自分の古びた財布取り出し餞別にくれたことは懐かしく覚えている。確か10円玉が何枚か入っていた。たび重なる引っ越しで、こうした思い出の品はすべて散逸してしまっている・・・。

石段登り始めると校舎が見えてきた。
が、これも鉄筋コンクリートに建て替えられていた。
これまた昔の面影など微塵もない。
小学校もそうだけど、ご大層な校舎に見合うほどの数の子供がこの辺鄙な町にいるんだろうか。
高野山で祖父が存命中、たびたびこの校舎下の自動車道を通り山を訪れていた。そのときクルマの窓越しに懐かしく見上げた体育館は校舎の左手だ。
その体育館内から女生徒たちの運動中の歓声が聞こえる。
かつて体育館裏で級友と座り込み、眼下の自動車道や広がる田畑、遠くの山並みを眺めていたものだがと歩きだすと、体育館内の若き男性教師が顔を出し、不審者とでも思ったんだろう「なにかお探しですか?」「いえ、50年ほど前にここに在籍してまして、初めて来てみたんです。体育館も建て替えられたんですね?」「ええ、随分前ですが」
かつて級友と座り込んでいた体育館裏手にはプールが設けられ、眼下の景色はもう見ることもできなかった。

そこを去る我輩の耳に、「50年前やって!」との女性徒たちのかしましい声が・・・。
つい最近のことのようにも思えるあの頃が、川崎くんや井上くんのことをまざまざと思い出せるというのに、はや半世紀以上も前・・・人生は短く、かつ時の過ぎるのが早い、早すぎると痛感した小さな旅であった・・・。

「コロナ禍の出発」完

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