529「そして、キリギリスは・・・」(前編)

8.6.土./2021

★6月、小林亜星、寺内タケシ、立花隆、李麗仙、原信夫さんの訃報を知って・・・

2015年夏、我輩病に倒れ、23年間持ちこたえた洋酒喫茶の店閉鎖も余儀なくされての6年目となる8月27日がもう目の前。
ふりかえると、あっという間の月日の流れ・・・。
特に昨今、コロナ禍で身動きとれず、昨日今日の(たぶん明日も)区別もつかぬ判で押したような、金太郎飴的日々・・・ゆえに時の流れが一段と加速の心持ち。

けれどそんなうんざりの反面、プラス面もあることに気づいた。
バイト最終日の日曜夕刻迎え「ああ、これでようやく休みに入れる・・・」とホッとしたのもつかの間、気づけばもう仕事の日を迎えている。それがサラリーマン時代ならば出社拒否症候群に陥るブルーマンディ気分のはずなんだけど、これまた気づけばバイト終了日の日曜迎えていて、いまや「仕事もあっという間に終わるモン」の、これまた解脱、達観したような心持ち。

が、表題の亡くなられた方々は我輩より年上ながらも、これまたまたたく間に彼ら逝去の年齢に達し・・・と、「死」が頭をよぎる。

★人生50年?

いや、頭をよぎるのは昨今のコトではないな。
かつて「人生50年」といわれた時代があった。
けれど、そういえば「死」なんてコトを意識するようになったのは、人生折り返し地点過ぎた50歳頃からではなかったか。あと何年生きてるんだろ?と(生きられるんだろ?じゃなくって ※)。

若い頃は、今は亡き祖父も父も親戚縁者も友も、自分ふくめての「死」なんて考えもしなかった・・・のに、「死」を想起し始めた年齢という点では「人生50年」って言い得て妙であるな?

※ 315「恐るべき空白」で、2015年に店で倒れた我輩、救急車中で「コレで死ぬか」(死ねるか、とはさすが思わず)と、死の恐怖が意外になかったことを記した。
けれど先日、スーパーの駐輪場で我が愛車のミニカー(520「春のワクワクなんとやら」参照)目にした老人「コレ、なんt?」と。
当の原付き乗り始め、うんざりするほどこの手の質問をされる。駅前の有料駐輪場では50ccと言っても管理人は半信半疑で(原付き以上のバイクは駐車不可なのだ)。
たぶんこれは、認知度の低い青ナンバーかつ前所有者特注の濃紺ボディカラーとマフラーに加え(なのに走行距離たった1200キロだった)、リアキャリアボックス、フロントバスケット装着ゆえ、大きくみえるという錯覚か?

で、この72歳の老人いわく「わし末期の肺がんでね、60後半に発病して。それまではもういつ死んでもええわって思っとった。けど死ぬと決まったら生きたいって思えてくるもんやねぇ」と。
爾来、我輩も死をまた目前にすると?と、ふと思ってしまうように・・・。
この老人、翌日我がバイト先まで来られた。風呂に入りに。
しんどいから歩けないと、リサイクル店で(!)買ったという走行距離メーター壊れたままの、四万円というボロの原付きで。でも話が長いのが玉に瑕・・・今度一緒に酒でも飲もうか。居酒屋で死なれたら困るかもだけど・・・。

★Memento mori(メメント・モリ 死を想え 死ぬことを忘れるな)と賢人はいうけれど・・・

日々「死」を想うなんて、凡人は日銭稼ぐのに精一杯でそれどころじゃないのが現実。
そんななか、店閉めてからの平凡な日常予想し、多少なりともメリハリある生活の後押しにと、活動内容記する5年間日記を購入。
そしてその空白だらけの日々の5年がはやくも経過した昨年末、今度は3年日記購入・・・いや、3年よりも2年、いやもう単年日記でよかったかもなんて思うと、人生予想通りにはいかぬのが世の常。李麗仙さんら亡くなられた方々の年齢はるかに超えても我輩、案外ほそぼそと生息してるかもと思ってもみたり・・・またその反面、そう思ってしまったせいでぽっくり逝ったり?(ポックリならいいんだけど。無様な年寄だけにはなりたくない)と、これまた堂々巡りの世迷い言。

★罪と罰

ま、この年まで不慮の事故や事件に巻き込まれての非命、横死しなかったのは運が良かったともいえる。
それどころか、人並み以上に人生楽しんだと、これは昔から自負。
「アリとキリギリス」の、キリギリス的人生を送ってきたのだ。

すると今度は、早逝してしまう人々と人生全うする人々、その運命の差は如何に?なんて思ってしまう。
と、不遜にも「親の因果が子に報い」「因果応報」なんて言葉が頭をよぎった。
よぎっただけでもちろんそんなことは信じぬが(信じたくもないが)、その反面「罰当たり」「天罰」ってことを我輩、半ば信じてることに気づいた(あ、これって因果報応のこと?)。

神も仏も信じぬ我輩なのに、宗教2世のせいか宗教なんてましてやであるのに、そんな「罰」なんてことは半ば信じている・・・いや半ば以上にかも。
死んだ途端、体重がわずかに減少するのは魂が抜け出るからという説も信じぬし、臨死体験で天国を垣間見たなんてのは脳細胞最後のあがきによるものという説派だし(地獄を見たという話は聞かぬ)、霊魂信じたコナン・ドイルは自分が死んだら霊魂存在のサインを現世に送って証明すると言い残し亡くなったそうだけどなんの兆候もなかったという話も聞くのにだ。

反面、眠れぬ夜など「死んだらあの世で祖父や父や叔父と・・・」と、皆での宴席夢想(あの世に酒はあるのか?無けりゃ行ってもしょうがない)。
で、座卓囲む席順なんてのを思い描いたりしている。
新参若輩の我輩は末席・・・いや、我が隣には先に逝った友を・・・そしてかつての古き良き時代同様、女たちは台所、ガキどもは別室という大人の男だけの酒席を・・・。

脱線してしまった、「罰」の話だった。
・・・振り返った我がキリギリス人生、不実なことをしてしまったすぐあとに、必ずといってよいほど天罰かと思えるマイナスな出来事が生じている・・・「この世に偶然はありえない、すべて必然」という説を知るとよけい・・・。

★そんな「罰」

最初にそのことに気づいたのはサラリーマン時代の30歳の頃だった。
友人S交え、我輩行きつけの店のホステス連中と飲み会を催した時のことだ。
その日の夕刻、大阪ミナミの喫茶店で待ち合わせをしていた。
で、何かの用で電話をかけようと店内の電話ボックスに入ると、電話機の上に長財布が・・・。
中には万札がたしか一、二枚。なぜか持ち主の身分証明書、カード類は一切なく・・・で、皆が集合し我輩は言った、「今夜はボクが奢る!」

一軒目の居酒屋から二軒目に移動しようと店を出ると雨が降っていた。
それぞれ相合い傘で歩き出した。
二軒目の店のあるビルに着いた。
傘を畳んでいると我輩の連れの女性が言った。
「わたしのバックは?」

居酒屋を出て傘をさす際、連れの女性のバックを持ってやり、我輩の肩にそれをかけ・・・すでに酔っていたのか、肩からそのバッグがどこかで滑り落ちたことに気づかず・・・彼女たちの顔も勤め先ももう忘れたけれど、二軒めでの飲み会どころか、交番での事情聴取やらなんやらに追いまくられ・・・けれども翌日、我輩の職場に警察からの電話。ミナミの料亭の仲居さんが拾ったバッグが届けらていると・・・。

で、その仲居さんへの礼金やホステスへのお詫びや皆の飲み代やらで、あの長財布の金銭遥かに超える金が吹っ飛んで・・・。
そう、この手の出来事がいくつも思いつくのだ。
ココに書き出そうとすると吐き気がするほどに・・・。
と、ここまで読まれた方は思うであろう。
「なんや、続けて不実なコトしとるやん」と。

いや、「長財布事件」以来「罰」意識し、「罰当たり」なことはせぬよう心がけ・・・ていても、人間である。単なる凡人である。
ズルいイブに言われるままリンゴを口にした馬鹿なアダムの末裔ゆえ、その時は不実と思わずしてとってしまった行為の結果として、ま、原罪によるともいえる「罪と罰」事例が連綿と・・・。
455「嫌悪感って?」に記した、そんな過去の行為のフラッシュバックを思わず打ち消そうとする悪態も、そんなことも一因。かつ、罰が記憶にない罪に対し、これからある日突然、とも危惧・・・2015年の発症も、罰か?

キイを打つのがしんどくなってきた。
我が飽くなきキリギリス人生の続きは後編で・・・。

「そして、キリギリスは・・・」(前編)完

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