572「初秋、中秋、そしての晩秋 E」(晩秋、最後の日々 / 後編)

11.26.土/2022

★厳寒目前、さらなるキリギリスのあがき・・・

D11月14日の月曜日。
「16才少女」との再会。

14時10分、難波高速バスターミナル発のバス乗車。
この11月、バイト先の会館が改修工事のため1ヶ月近く有給休暇扱いに。
で、旅に出ようと思った。

まず考えたのは、我が愛車の原付き三輪バイクで高野山の祖先墓参り。そして高野龍神スカイライン経由しての青春時代過ごした南紀田辺市へ・・・が、この季節、バイクじゃ寒すぎると実感。断念。
次に思いついたのは、格安ニコニコレンタカーでの、車中泊放浪の旅。
近隣にできたニコニコ取扱店でパンフ入手しほぼ決定していたけれど、事故時の保険検討していて万が一のこと想像し始め(自家用車ならいざ知らず)想像力豊かな我輩ゆえ、躊躇。かつ、放浪ゆえレンタル日数決められず、クルマなら同伴予定の我が愛犬「テンバ墨丸(おてんば娘の意)」がレンタカー汚したならばなどと、これも断念。
それで思い至ったのが、南紀田辺行ならばの、高速バスの利用。
'19年の465「夢か、まぼろしか?」で初めて利用の大阪・田辺往復五千円ほどの高速バスだ。
さらに、田辺訪問告げた現地の高校同窓生と呑もうということにもなり、その呑み代考えると旅費など安けりゃ安いに越したことはない、が決定打。

予定していた午前10時10分発バスにははるかに間に合わず、つづく11時40分発にはバス発車時刻数秒遅れでこれまた乗れず、結局14時10分に乗車。こうしたずさんさも一人旅の気楽さゆえ。
3時間は要するだろう旅程のはずが、16時15分には南紀田辺駅前着。
途中休憩ふくめてもたったの2時間。バスにして良かったの感。翌日帰りの15時2分発ではラッシュと高速道路工事重なって、3時間たっぷりだったけど・・・。

思いがけなくも、夕刻待ち合わせ時刻まで余裕ができた。
地方都市にしては多すぎるかの宿泊施設のなかから、駅前で最も安いホテル選ぶと、これは値段にふさわしい、いや以下かのビジネスホテル。
歯磨きチューブは家庭で使う、3分の2ほども使用済みのソレがなぜか二本も洗面台に。もしかしてホテル関係者の居住部屋かと思わせる、このコロナ禍でなくとも衛生的に?等などのマイナス点多々のシングルルーム。
ウエルカムサービスでコンビニおにぎりとゆで卵付きだったけれど、ホテル自家製おにぎりだと、たぶん口にしなかった・・・。
フロントで紹介された女性親子が営む近くの串カツ屋にてぬる燗呑みつつ再会の時を待つ。

駅前18時に集まってくれたのは、かつての同窓生女史の3名。
'18年の墨丸会員OBOG3名との白浜旅行時に立ち寄った富田の陶芸店主F・M女史、'19年の高校演劇部同窓会で会ったH・Y女史、そしてなんと驚きの再会は、かつて高校1年生の彼女16才当時に我輩会ったきりのS・Rさん!
(我輩、落第生と以前記したけれど、H・Y女史は元同級生、F・M、S・R女史は落第後の同級生というのもなにか縁)。

そのS女史、かつて我輩と同じ演劇部員。
で、冬休みに行われた合唱部クリスマス・コンサート練習日に照明係を担当。
その作業中、持ち場の体育館屋根裏から転落。
我輩は当日不在だったけれど、前述のF・M女史は合唱中に転落そのものを目の当たりにしたとか。
で、重症負っての休学が16才時・・・なのに彼女、歳を重ねた感あまりなく、余計に懐かしい、懐かしすぎる再会。

が、酒呑まぬ彼女が二人の女史送迎のクルマ運転手役。
かつ、彼女は20時にはこの親不孝通りにある大型居酒屋「いろは」(宿泊施設同様、駅前には信じられぬほどの数の飲食店。が、この夜この店の客は我ら一組だけ)を出なければならなかった・・・。
で、語り尽くせぬ一夜で終わってしまって、次なる再会を乞う。

E11月15日の火曜日。
探偵ガジュ丸。

田辺での二日目のこの日、548「12/28/2021」(会えぬ友)での高校時代の友F・Mの行方を追うことにしていた。
前夜の呑み席でその予定述べると、陶芸店主F・M女史いわく「彼のお兄さんかもの人知ってるッ」と。
それでのこの日、F・M女史が午前9時からわざわざ我輩に付き合ってクルマも出してくれての、お兄さんかものそのご自宅訪問となった。

そのご自宅はF・M女史姪御さんのご近所。
で、なにかの折に弟Mのことをその方から聞いた気がということでの訪問。
だったけれども、あいにくの留守。
いや、空き家かもしれぬと、この件についてはこれも留守だった姪御さんに確かめてもらうこととなった。

つづいて市役所へ。
受付で「かつての同級生を探している。区画整理後の転居先わからぬか」と問えども、危惧した通りバカらしいかもの個人情報云々で「教えられぬ」との返答。前回記した、学友Hが養子に出たにも関わらずの借金追い込みなどの個人情報ダダ漏れだというのに・・・。

コメダ珈琲店にて休憩。
で、F・M女史「同窓会幹事なら何か知ってるかも」と二ヶ所ほどに電話してくれた。
するとうち一人が「同級生だったAさんがMのお兄さんと結婚して市内に住んでいる」との情報。
Aさんは珍しい名字で我輩覚えていた。
そして奇しくも、我輩とMと三年生時に同じクラスの女性だった。
その彼女の自宅電話番号も判明。
が、電話するも不在なのか、出ず・・・。

こうしてこの日の捜索は行き詰まったものの多大なる収穫ありで、今後我輩がそのA女史に連絡をとることとなり、帰途につく・・・。

F11月18日の金曜日。
新展開。

帰阪後、17日にかけてA女史宅に電話するも毎回つながらぬ。
ゆえに留守電に「F・Mくんの消息知りたし」と入れてみた。
と、18日、見知らぬ携帯番号からの着信。
A女史からだった。

A女史は我輩のこと覚えていてくれた。※
そして、Mは生きていた。
それも先日訪れた田辺の地で。

A女史いわくの要点。
Mは昭和60年前後に大阪から田辺に帰ってきて独り暮らしを始めたが、ゴミ屋敷状態となり二度も借家を追い出された。いまは市営団地で引きこもり状態でいる(それが、前述H・Y女史と同じ地区)。たぶん本人は会わぬというと思ったが連絡すると、我輩とはぜひ会いたい、いまの状況すべて話してくれてよいからと、珍しく明るく生き生きとした様子だったので、直接連絡してみては?と。
(15日に訪れたご自宅は空き家とも判明。固定電話は勧誘多しで知らぬ電話には出ないことにしているというのは我輩も同様)。

で、会える日を連絡せよと葉書を出した。
A女史の「昔とはまるで違った人間になっている」とのことに、少々戸惑いはあるけれどの返信待ちである・・・。

※A女史との会話の中で懐かしい名を聞いた。
三年生の時、同クラスだった女生徒だ。
A女史「彼女のこと覚えてます?彼女に、むかし大阪で出会った話を聞きました」と。
そうなのだ。
むかしといっても我輩が二十歳前後の頃のこと。
そんなことをこの歳になって聞けるなんて、だ。
当時、大阪フェスティバルホールから出てきた彼女とばったり出会い、その後二、三回電話で話したことを覚えている。現在、大阪在住というので彼女とも会ってみたい・・・。

今年、こうして何人もの人たちとの再会が続いている。
思いがけない方からの手紙もいただいている。
ちょっと恐ろしい気がしてきた。
絶命間際の走馬灯みているようで・・・?

G11月23日の水曜日の午後前半。
ついにの「氷雪の門」。が・・・。

劇場公開時、ソ連の上映中止の要求でお蔵入りとなり、その後の自主上映時にも「日ソ平和条約」の障害となる云々で共産党系民青の上映妨害に遭ったという幻の日本映画「樺太1945年夏 氷雪の門」だ。
墨丸時代に一度だけ観る機会あったにも関わらず見逃しての今回、大阪ビジネスパークにて一回限りのトークライブ付き上映会。

で、この春以来ご無沙汰の、コロナ(罹患)恐怖症で引きこもりの呑み友M氏無理に誘っての今回の観劇。
上映大ホールは中高年者で満員。M氏と別れようやく席確保となるほどで、これまた大いに期待・・・するではないか?

物語は、二木てるみ(我輩、高峰秀子さんと共にファンだった方)らが演ずる樺太真岡の郵便局電話交換手9名が、敗戦後のソ連軍侵略暴虐目前にしつつも電話交換業務死守。ついには全員自決に至るという実録’大作’戦争映画。

観始めてすぐ、?マーク。
藤田弓子、岡田可愛なんて女優が出てる?
なら、いったいコレはいつの映画だったっけ?
制作費億単位の’大作’というけれど、この戦闘シーンのチャチさは?
ソ連軍艦も燃え上がる町並みも、特撮監督円谷英二以前の技術かのおもちゃ仕様。
押し寄せるソ連戦車群だけは本物だけど(自衛隊のだけど)、ただ野原走り回ってるだけ。
銃撃、爆発音は、リアル感まるでなしのドキュン、バキュン。
兵士の死に様もこれまたリアル感ゼロの三流演出。
音楽は同情無理に呼び起こすかのような耳障り極まりぬ不必要さ。
そして、監督の村山三男って知らんけど・・・?

1950年代か60年代のモノクロ作品と我輩思っていたけれど、1974年の東映カラー映画だった・・・この年代の日本映画は面白くもない作品ばかりで、我輩洋画ばかりを観ていた時代。
どうりで宣伝文句のなかに「名作」の文字、見当たらんかったと気づいても後の祭りの前売券2000円。
M氏は「観始めてアカンと思たけど、ラストの自決シーンで泣けたなぁ」
我輩「ならば5点満点で何点?」
M氏「3点!」
我輩は1点だった。泣けもしなかった。1点以下かも・・・。

H11月23日の水曜日の午後後半。
ある手紙。

難波地下鉄コンコースにある居酒屋「大沢」にてM氏と久方振りに呑む。
そこでの話が、前述18日の項で記した「思いがけない方からの手紙もいただいている」件。
この春だったか、堺に住む息子から我輩あてに手紙が届いているとの連絡が。
その差出人は、なんと思いがけなくも、かつての勤務先ダスキン本社のTさん。

我輩ダスキン退社後、転宅かさね、かつて住んでいた堺のその家の住所など知るはずもない方なのに?
我輩ダスキン勤務時、所属事業部にいっとき責任者としてこられた「働きさん番号」※ひと桁の、いわばはるか「雲の上の存在」の方。個人的に親しく話したこともない方なのに?

※ダスキンでは入社順に「働きさん(社員)番号」が与えられる。我輩は2799番。そのひと桁番号の方、Tさんは。
そして上司であろうと部下であろうと互いに呼び合うのは「○○さん」という「さん」付けが社内規則という良き風習ありの会社(今で言う「ブラック企業」的サービス残業は悪しき風習だったけど)。ゆえに我輩ら下っ端も「Tさん」とお呼びしていたのだが・・・。

で「大沢」でその話を元ダスキン同僚のM氏にしたのだ。
「え〜、Tさんから?わしTさんに仲人してもらったのに手紙なんか来てないでぇ。なに書かれてたん?」(会社人間に仲人なんて!の我輩は、高野山の叔父貴に仲人依頼)。
・・・その手紙、いまだ息子宅に留め置かれたままだった。で、詳しい内容不明なまま。もちろん当時、すぐ手紙お礼の電話入れさせていただいたのだけど・・・。
でM氏に「Tさん宅に一緒に伺おう!酒持って」と、その実行日を翌週月曜日と決めたのだったが・・・。

こうして呑むうち、M氏はコロナ恐怖症薄れたのか、我輩行きたくもないカラオケに誘って、我孫子へ移動。
9月の563「激夏のなかで」で記した美人ママ経営のカラオケサロン「ゆうこ」は満員。で、隣のスナック「さくら」に初めての入店。

お客は60代男性のみ。
それがその方、我輩我孫子の呑み屋先々でなぜかよくお会いし、「最初はどこでお会しましたっけ?」と問えども不明なままの、毎回その当初の出会い考えさせられるお方・・・だったのだがこの夜、その方のキープボトルに書かれたサイン目にして「あ、もしかして・・・」

我孫子の墨丸時代、近所の市営住宅にとある俳優の父親が住んでいるとお客から聞いてはいたが、その方だった。
ボトルに書かれていたその名字、「北村」
そう、俳優北村一輝のお父さん!でも、最初の出会いの店は不明なまま・・・。

このあと「さくら」には、我輩行きつけの居酒屋「はなこ」の女将さんらが訪れたりと、我孫子の夜は「コロナどこ吹く風」の盛況ぶり。
カラオケは5曲で打ち止めにしてくれよと頼んでいたのにもかかわらず、コロナの恐怖忘れたかのM氏、これまた延々と歌い続けて我輩、最終電車に乗り損なうところ・・・また引きこもってくれたまえ、M氏。コロナ罹患していても、これはもう俺のせいとちゃうど〜。

翌日M氏からメールが届いた。
「Tさん訪問、コロナ落ち着いてからにしょ・・・」
我輩、Tさんへの手土産、日本酒「上善如水」を、すでに買ってしまっていた・・・。

「初秋、中秋、そしての晩秋 E」(晩秋、最後の日々 / 後編)完

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