601「おもいでまいご」(第2話/大阪:阿倍野 編)

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               
3.4.火/2025

昨年12月のこと。
我輩、小学6年生時、大阪から和歌山紀北の田舎町の小学校へ転校(この話は497「コロナ禍の出発」参照)。
以来はじめて、かつて通った大阪の阿倍野区丸山通りにある丸山小学校「内」を訪れることができた。

※阿倍野には、物心ついたころから小学6年までと高校3年ころに松虫通りの営林署官舎に居住。我輩3年時は和歌山紀南に下宿生活で阿倍野には住んではいなかったが。

いままでも懐かしの阿倍野界隈散策したことあるものの、より懐かしい小学校はフェンスの外から眺めるしかなかった。というのも、容易には校内に入れぬ時代となっていて・・・。
いまのアルバイト先でもそんなことを思い知らされた。
たまたま話し相手になった小学生らに「おじちゃんなんて名前?」と聞かれ「ジョニー」と適当に答えて以降「ジョニー!ジョ二ー!」と大声で呼ばれるように。「ハリマオ」とか「明智小五郎」とかの名にしなくてよかったかと思う昨今、そんな子らに禁煙対策用に持ち歩いている百円ショップのあめ玉あげようとすると、「よその人から食べ物もらっちゃダメって言われてるの」と。毒でも入れる輩がいるというのか、そんな社会になってしまっていたのだ・・・。

この日の懐かしき小学校訪問となったきっかけは、数日前にもこの地を訪れていたからである。
というのは、酒場墨丸の常連さんならご存じの、この地在住の墨丸会員284号かよさんとの呑み会あったゆえ。
かよさんからは時々「呑もう!」とのメール届き「OK!」と返信するもそれで立ち消えがもう何年間も。
今回はメールでなく電話での会話だったゆえ「いままで実現せえへんやったやん?」というと「マスターの体調のことあるから無理に誘ったら悪いかと・・・」と、いらぬ気づかいゆえのことだった。
ちなみに彼女はパソコン持っていずスマホは使いこなせずとかで、我がブログでの呑み歩き人生のことなど知る由もなかったのだ。

その呑み会で、前回我らが会ったのは墨丸閉店のきっかけとなった我輩の2015年夏の長期入院後の、墨丸会員有志主催の退院祝いパーティー以来ではないかと。が、ともに「そのあと会ってる気がするよなぁ?」
その彼女いわく、酒場墨丸の常連となったきっかけが、彼女の姉に店を紹介されてとのことだった。そしてその後は妹さんとも呑みに来ていたというのだが我輩、その姉妹の記憶まるでなく、「次回は彼女ら交えて呑もう!」となったそんな夜会の昼間、我輩は小学校近辺を徘徊していたのだ。そのとき、小学校フェンスに貼られた「在校生作品展示会」開催チラシを目にしたのだ。そして一般人も校内に入れると知ったのが、今回の学校訪問のきっかけ。

呑み会の数日後、天王寺から懐かしの阿倍野筋を南へと小学校目指して歩く。
少し西に傾いた陽の光が顔を射す。
と、一瞬、子供時代に同じ場所で同じ陽の光を浴びた錯覚にとらわれた。錯覚だとしても懐かしすぎる感覚。感無量・・・けれども、その阿倍野筋にあったカウンター席だけの小さなカレーライス店「ダルニー」(って名だったか?)、母にパチンコをしている父に家に帰るよう呼びに行かされたそのパチンコ屋、青春時代にたまたま入った喫茶店でみかけた客がかつての小学校同級生女子(大柄で気の優しかった野田さん)がヤンキー風女史に変貌していて声をかけなかったことをいまは後悔のそんな店々はすべて消滅・・・。 

唯一現存の阿倍野警察署を過ぎ西側に入った丸山通りに小学校がある。
小学校正門前にかつての同級生男子の家があり、学校が近くて羨ましかったことを覚えている。で、建ち並ぶ家屋の表札を順に見ていくがどれも覚えのない姓ばかり。
学校の左となりは通りより少し盛り上がった地の野原で、かつてはまばらに木造平屋が建っていた。そこに一年生当時の担任だった川上先生が住んでいた気がするけれど、いまや二階建て家屋が密集。当時の面影などまるでなかった。
そして、鉄筋コンクリート校舎の小学校前の通りの裏に木造の分校もあったのだが、その跡地さえもう分らぬ変わりよう・・・。

むかしはあけ放たれていた小学校正門を出たところで当時、交通事故があった。被害者は同じ学校の生徒だった。血を洗い流したのだろう跡が残っていたのをいまだに覚えている。生まれて初めて交通事故というものを知ったのだから。が、そんな通りもかつては広い自動車道路だと記憶にはあるのに、いま見るとクルマ一台分ほどの幅の道でしかなかった。

かつてと違い厳重に閉ざされた小学校正門の通用口インターホンを押し展示会見学の旨を伝えると、通用口のロック自動解除(すごい。刑務所みたい)。
案内の若き女史教師に尋ねる。「ここの在校生だったんですが校舎は建て替えられたんですか?」「最近赴任したばかりなのでわかりません」
展示会場は校内に入って右側の講堂。
むかしはプールがあった場所だ。
なら、かつての講堂は?もう見当もつかぬ。
一応、展示会に顔を出し、そのあと校庭を巡る。

三階建て鉄筋コンクリート校舎の外壁塗装は新しいものの、よく見るとむかしのままの外観。当時は二階建て家屋少なく、学校屋上から遠くに我が家の瓦屋根が見えたものだ。
その校舎一階部分に運動場に出る通路がある。その上部だけガラス壁面の渡り廊下に変貌していた。
その通路の左の壁に、かつて我輩が描いた絵が優秀作として展示され、家族が見に来たことを思い出す。
通路手前右手の中庭は、上記497で記した、同級生の川崎君が我輩の転校の餞別にと自分の財布をくれた場所だ。その現場だったジャングルジムだったか滑り台だったかの器具はすべて取り払われていた。そうそう、その川崎君が三階の教室の窓の手すりを持って窓の外にぶら下がってみせ、皆が驚いたことも思い出した。
通路くぐった運動場囲むコンクリート壁は黒ずんでいるものの昔のまま。左手の校舎裏側は石炭置き場だったが、そんなものは影も形もなく、でもその空間にかつての雰囲気がかすかに残っていた。教室でストーブ使った記憶はなかったけれど。

小学校を出て、丸山通りを西へと歩く。自宅に向かう通学路だ。
右手にあった、歳末大売り出しの抽選会で特賞の大きな塩鮭を我輩と弟が当てた丸山市場も住宅に変貌。その角を北に曲がると右手に大谷女子大学の運動場があった。が、子供時代、その先は未知の世界だった。
未知の世界といえば、市場前を過ぎた丸山通りの先もだ。
記憶ではその先の、道の両側にお屋敷の板塀が続き、その庭の木々の枝葉が両脇から道に被さった薄暗いまっすぐな下り坂だったはず。で、初めて進んでみると行く手すぐにマンションが立ちふさがっているではないか。マンション入り口横に「丸山古墳跡」との石碑が。え、突き当りが古墳ならまっすぐな道じゃなかった?その道は右にカーブし、その先に左に入る短い坂道があったけれど・・・。

Uターンし市場跡に戻る。
角に二階建て中古家屋の売り物件があった。
宝くじ当たればここを根城に周囲をくまなく探索したいなどと夢想。
南に曲がるとかつての我が家につづく松虫通りだ。そこに我輩が卒園した聖愛幼稚園がある。
園舎前は遊具の置かれた広々とした場所だったのに(そこで友達の中村君の、襞のついたスカートを穿いた彼の母親を見て「うちのかあちゃんもあんなの穿いたらいいのに」と、モンペ姿の我が母のことを幼児ながら思ったものだ)。
そんな場所も門のすぐ手前まで園舎が増築されていた。少子化の時代だというのに?
園の裏手はキリスト教系の女子大学で、敷地の芝生が隣接する丸山小学校まで広がっていた。そこに外人大学教師の洋風の家がポツンと建つ異国風の地だったのに、今は見る影もないほどコンクリートの大学関係の建築物が密集・・・そうそう、かよさんのお子さんお二人は、我が出身のこの幼稚園と小学校の後輩であることも呑み会で知ったのだった。

このあとの散策で気づいたが、高い板塀の中など見ることもできなかったお屋敷が何軒もあったそれらすべてが幼稚園や大学校同様、密集した小住宅群に変貌。かつての住まいだった営林署官舎一軒分の敷地に二軒分もの住宅が建てられている有様。いまは味気ない街並みの松虫だが、むかしはお屋敷町だったんだ?

小学生時代、同級生に二卵性双生児の兄弟がいた。
彼らの家は日ごろ通る道から両脇に家の立ち並ぶ脇道の先にあった。彼らの家を訪れたことがなく、あの脇道の先はどうなっているんだろと思っていた。
で、この日に確かめようとしたけれど、脇道入り口を井戸端会議中の女性らが立ちふさがっていて素通りしてしまった・・・。
これらのこと思うに、小学生時代の我輩の行動範囲って、自宅中心にしてたった数百メートルの範囲内でしかなかったのだと気づいた。数百メートルのその先は「未知の世界」だらけだったのだ・・・。

こうして帰りは松虫駅からいわゆるチンチン電車に乗って終点の天王寺へ。
小学生のころは天王寺の陸橋の上で白衣の傷痍軍人が募金箱を首から下げて立っていたものだ。が、その陸橋も近代的な仕様に様変わり。我輩からすると味もそっけもない雰囲気。
懐かしのアポロビルに寄ってみようと陸橋を降りる。
青春時代、陸橋下に「桃陰」(だったか?)という名の一軒家の洋酒喫茶があった。四天王寺への道沿いにも同名の系列店があった。当時飲んでいたのはジンライムだったと思うが、いったい誰と呑んでいたんだろう?

その向かいのビルにあった三和銀行の場所にも思い出がある。
銀行裏口で、片方の親指のない中年男性が辻占いをしていた。
そこで「彼女」と一緒に占ってもらったことがある。
と、易者さん「この女性はあなたの人生の足を引っ張る人です。生き別れ死に別れ免れません」
のちに、恋に悩む高校同級生だった女性にこの易者を紹介したことがある。
と、恋の行く末を占った易者さん、「縁なし」。
泣き出した彼女つれ、少し離れた場所にいた女性易者に再度占ってもらうも、「縁なし」。結局、二人は結ばれなかった。
我が妻リ・フジンとなった我輩のその「彼女」はというと、その占い通りの人であった・・・後年、酒場墨丸来店の幾人もの各種占い師らもまったく同様の弁。単に「善人」であることだけで(が、理不尽さでいまやそれも台無し)、いまも「我が妻リ・フジン」として我が家に、いる。我輩、易者に忠告された「できるだけ会わぬ方が良い」守りつつ・・・。

さぁ、懐かしのアポロビルだ。
ン?ビルがない?・・・あのアポロもなくなった?
で、アポロあったはずの場所にある阿倍野センタービル地下から天王寺駅に向かおうと地下に降り「駅はどっち?」とさまよっていると、アポロビルの地下街に出た。阿倍野センタービルの隣のビルだった・・・そういえば阿倍野センタービルってむかしからあったわ・・・。

「おもいでまいご」つづく

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