10.31.金/2025
今回は現代版「浦島太郎」的なお話。
題をタロウでなくジロウとしたのには訳があり・・墨丸我孫子店時代、反社会的人物(と後に判明)かつ昔のちょっとした有名人の息子である通称「太郎」とレンタカーでの北海道縦断旅行を敢行した際の嫌な出来事を思い出してしまうからである。
※我輩にとって「イヤな」話はここには掲載していない。数々のそんな話は多々かつ面白いかもだけど、ほとぼりが冷めたら、だ。
で話というのは、今秋のとある日、ふと思いついて(毎度のごとく「ふと」だけど)、クルマ走らせての出来事・・そういえば昨年の秋の日も・・そうだ、まずはその昨年の話を少しばかり(浦島的お話じゃないけれど)・・。
昨年、初秋にふと「あの場所をもう一度走ってみたい」と、愛車の原付三輪バイクで亡き母の故郷であり我輩生誕の地(※)でもある高野山奥地に向かったのだった。
※高野山入り口、大門の前を通り過ぎた山間のいまは原野と化した、かつて40林班と呼ばれた営林署官舎があった地で生誕。その山中に残され朽ちかけた「40林班」と記された標識が我が家の庭に今はある。
この地の廃村については、連載「144〜 高野山たどり着き隊物語」で記したように、徒歩や中型バイク、乗用車で数え切れぬほど訪ねたものだが、この日は初めての50cc原付バイクでの出発。それはそれでよかったのだけれど・・。
目的地まで片道40キロ余り、所要時間は2時間かからずかの目算。
地元K市から工事中で通行不可の紀見峠トンネル迂回し、トンネル上の紀見峠を越え和歌山の橋本市に入ってこれまたふと思いつき、高野山に至る整備された旧有料道路利用ではなく反対側の、我輩二十歳前後の頃に中型バイクで走り抜けた玉川峡沿いの道を行くことに・・。
玉川峡沿いのそのルートには途中に「ヤドリ」と呼ばれる川の遊泳場があり、夏場は結構にぎわっていたものだ。
クルマがすれ違うことも容易ではない狭い道ながら当時は高野山までのバス路線でもあった。が、こんな秋の日にはすれ違うクルマもほぼなく軽快な走り。
遊泳場にある宿泊施設は建て替えられ広々とした駐車場も完備されていた。が当時、我ら仲間は大衆浴場並みの混雑した川など入りたくないと「人のいない場所を」と見つけたのが、「ヤドリ」から2〜3キロほど上流の、クルマが停められ、かつそこから見下ろした清流には小さな滝と深みもある無人の場所。斜面の木々につかまりながら降り立ったその場所が、以後の我らの秘密の遊泳キャンプ場となったのである。
が今回、当時から半世紀も経過・・その場所が、はてどこだったか?
「たぶん」と思われた箇所は、川沿いの木々が切り倒されての何らかの工事現場(いま思えばバイク停め確認すべきだった。我が子らに引き継げた場所かも知れぬのに。ま、次回にでも)。そしてそこから人の住む地区までに一軒だけあった民家はいまは廃屋・・。
幼児の頃、祖父母の年長の子らに連れられ遊んだ場所で川遊びをしようと後年、友人らと祖父の家から歩いて出かけたことがあった。が、うろ覚えながらのその場所は水かさが浅すぎ泳げるような場所ではなかった。ではあの秘密の場所へと歩き出すと(思えば結構な距離だ)、通りかかった軽トラの見知らぬ小父さんが「どこ行くんよ〜」と声かけてき、皆で荷台に乗せてもらってたどり着いたこともあったという古き良き時代・・。
で、ツーリング中の中型、大型バイクに次々と追い抜かれ、我が愛車の馬力のなさにイライラしつつようやくたどり着いたのが、目的地の廃村である通称「マニン」(摩尼山麓にあるのだ)下方に位置する「ミナミ」という集落。
そこには、弘法大師が高野山に向かう際に休んだといわれる「大師の腰かけ石」が残っている。その場所から山の上の「マニン」経て高野山に通ずる山道があり、大師が、そして我輩が子供の頃によく上り下りした渓流沿いの小道だったのだが、いまは利用する人もいなくなったのだろう、藪が生い茂った道の入り口は封鎖されていた。そのあたりの事情確かめようと思えども人気のまったくない「ミナミ」であった。
「マニン」に向け、再出発。
数分走るとその村に通じる小道がある。
そこから2`ほど先が「マニン」だ。
その道を走る途中で新事実が。
「高野山たどり着き隊物語」で記した怪事件「赤い灯」の場所であった祠が、一か所でなく二か所もあることに気づいたのだ。今日まで何度となく通った道だというのにどうして今まで気づかなかったのだろう。不思議だ。ただ、事件現場は村に近い方の祠だと確信するのだが、その付近には「赤い灯」を発見した「繁み」などなかった・・。
村の入り口には土葬の墓場があり、今回は祖先の墓参り兼ねての訪問だったが、走ってきた玉川峡沿いには供えるつもりだったカップ酒などの販売店舗などなく、墓前にタバコを供えて合掌。ここまでの距離44.5`。2時間7分を要す。
そして葬られている祖父母らの墓石に刻まれた没年月日をメモる・・。
叔父 正人 昭和33年3月2日?歳
(風化し没年齢判読不可。確か本人が中学1年生前後の頃に死去。ジャングルジムから落ち、祖父に怒られるとそのこと誰にも言わず、のちに脳出血で。その頃だったか、セルロイドの下敷き割ったとかで祖父に叱責され家に帰ってこなかったことがあった。家族中で探す中、幼児の我輩と叔母が自宅屋根を見下ろせる山のなかで座り込んでいるのを発見・・厳しかった明治生まれの祖父はその末っ子の死後、気質が変わったという。が、初孫の我輩には常に優しかった。小学校に入ったばかりの我輩、初めての葬式の場で号泣)
祖父 政茂 昭和58年10月16日77歳
(肝臓病で死去。敬愛する祖父に倣って口髭の我輩、初めて死んだ人の体(額)に触れ、その冷たさを実感。我輩の本と映画好きは祖父の遺伝のたまもの。が、その資質引き継ぐ親族はいまのところいず。当時我輩、東京でのサラリーマン生活中で死に目には会えず。座棺桶の祖父埋葬するため墓を掘り返すと正人兄のズック靴のゴム底が出てきた)
祖母 カメノ 平成元年3月16日85歳
(老衰死。我輩幼児の頃、橋本市内での祖母の呉服の行商に連れられたことがある。その帰りの「マニン」への山道で祖母が小便した場所を今回カメラに収める)
叔父 誠 平成7年10月1日55歳
(酒飲みの祖父の死により肝臓気にし断酒したにもかかわらず、祖父同様の病で死去。現在言われるB型肝炎ではなかったか。会社上司に依頼するなどもってのほかだった我輩の結婚式での媒酌人を務めてもらった。子供いず、祖父家断絶。以後、残る6人の嫁いだ娘たちも高齢の一人残し死去)
※気づけば皆、3月と10月に亡くなっている。今後は各月にでも墓参りに赴こうと心に決めた。
そしての「マニン」
廃村となってからも度々訪れ、徐々に朽ち果ててゆく村の各家屋を目にしているゆえ浦島的感慨ないものの、父親の仕事柄転宅繰り返してきた我輩にとって現存する家屋に「なつかしさ」抱ける唯一の場所。ここ以外のかつて住んだ住宅はすべて消滅してしまっている。
さて、帰りのルート走破が今回の目的。
「マニン」から高野山内に入り、旧有料道路走らず別ルートで山を下るのだ。
その、両側を生い茂った木々に覆われ昼なお暗き林道でみかけた廃屋かと思われる家屋のある地区の立て札で、中学生時代の同級生の一人が住む地区だと初めて知り「こんな場所からどんな方法で学校に来てたんだろ」と思ったほどの辺鄙な人気のまったくない細い道が延々と続き、ようやくそこを走り抜けると突然開けた場所にでる。斜面に広がる畑地だ。その農道通り抜けると大阪方面へとつづく一般道にでる・・はずだったのに、今回走ったそのルートにはそんな風景まったくなく、行けども行けども両側を杉木立に囲まれての飽き飽きするほど代わり映えのしない風景の舗装道路・・入り口間違えた?この道はいったいどこに通じてるんだ?俺はどこに行ってしまうんだ?と、残暑の日ゆえTシャツにナイロンパーカー羽織っただけの我輩、山中の寒さに震え、かつ当初8割がたあったガソリンもどんどん赤ランプに近づき心も震えはじめ・・と村に出た。
え、ここは?
見覚えあるその場所は、2022年の秋、567「曖昧な記憶:後編」で記した、中学時代の友人宅を探しに訪れた村だった。なんでこんなところに・・と、ますますの寒さに震えながら村を走り抜けると、「高野下」という集落に・・と、そこには見覚えのある、かつてのルートの出口が、あった。確かここだ、たぶん・・暖かくなれば、ここから懐かしの小道を逆走してみよう!と、懲りない我輩でありました。
ちなみに帰りには3時間10分要し、走破総距離95.7`、でした。
・・そういえば今年、高野下からの逆走ルート、確かめに走ってなかったわ・・。
「ウラシマ ジロウ 談」つづく